2014年5月28日水曜日

西部ウクライナの不思議な歴史(ハプスブルグの面影を求めて:その13)

 ウージュホロドのバスターミナルから国境まで歩いていて、以前訪問した、モスクワ、サンクトペテルスブルグ、カリーニングラードとは、雰囲気の違うエリアと実感した。

 同じ旧ソビエト連邦だったとはいえども、多様なものをに一つにすることはできなかった。

 モスクワやサンクトペテルスブルグには「市場(マルクト)と市庁舎の組み合わせ」が想像できない。
モスクワ クレムリン一帯

モスクワ クレムリン一帯

モスクワ オリンピック時に建てられたホテルから

カリーニングラード 第二次大戦後に再建された部分

カリーニングラード プロイセン時代の面影を残す


カリーニングラードには、ドイツ時代(ケーニヒスベルグ)には有ったはずだが、第二次大戦で無くなっている。

 ちなみに、一橋大の水岡先生の紀行文「ケーニヒスベルクの追憶」は秀逸。

 共産主義政権は狭い所に市民が自然に集まることを嫌ったのではないか。

 そしてだだっ広い広場や道路を作る事を好んだ。

 軍事パレードなどを行い威圧感を誇示する事も出来るし、万が一、デモ等が起こった際に、狙撃や鎮圧も容易にできるからか。

 大規模な爆撃や激しい戦場にならなかったリヴィウとウージュホロドは、幸いにソ連式の都市計画が旧市街に及ぶ事はなかった。

 両市とも昔の中欧のたたずまいを感じさせる旧市街が残るが、異なるカラ―を持っている。

リヴィウはじっくり見学できたが、下記の訪問記はロシア語学科の大学教授だけあって羨ましいフィールドワークだ。

上智大学外国語学部 上野俊彦教授のウージュホロド訪問記 

同教授のリヴィウ訪問記

 昨今(2014年5月現在)、多くのマスコミがウクライナを東部・西部と単純に分けているが、その西部内部ですら異なる歴史を歩んできていたことは余り知られていない。 

 例えば、リヴィウが長期間ポーランドの施政下にあった後オーストリア帝国(帝国直轄領)に編入されドイツ人やチェコ人たちが実権を握っていた。

 一方、ウージュホロドは歴史的にはハンガリー王国の施政下にあった(WIKIによれば、1910年の時点ではハンガリー人が人口の8割でウクライナ系住民はきわめて少数)。

 ウージュホロドは第一次大戦後から1938年までチェコスロバキア、そして1944年まで日本とともに枢軸国であったハンガリーに併合されていた歴史がある。

 どちらの都市も異なる歴史をもっていたが第二次大戦以前はロシア人や共産主義政権に支配されたことはなかった事は確かだ。

 それがゆえに親欧州という共通項があるのだろう。大統領選挙の結果がどう作用するか判らないが、ウクライナはこれからも、欧州とロシアの緩衝地帯であり続けるのではないかと思われる。
リヴィウ ハプスブルグの面影

 歴史を本で読むだけでなく、自分でもその地を歩いてこの目で見てみたい、という気持ちが今回の旅の動機だったので、地域の帰属が変わり、民族構成も変わって来た事実をこれからも知ってゆきたいと、西部ウクライナを訪問し強く感じた。

(2014/05/27記)


2014年5月21日水曜日

外資系経理への転職(35歳限界説を打ち破れ)



参考にしたページを幾つか


勇気編

37歳経理マン、入社7カ月での再転職。


内定をもらい始めてからの意識編

日本企業の経理マンと外資系企業の経理マンの悲喜こもごも

2014年5月19日月曜日

再編は民主あいまい、維み(いみ)不明


引用の重要性

 引用は、他者の意見を批判的に受け止め、自説を補強・発展させる上で重要である。

 頻繁に使われる『パラフレーズ』は、意味合いを同じくして違う英語表現にする事で、論文の当事者の理解度を検証できる仕組みになっている。

 一方で単純な引用ばかりでは、自らの思考の結果を相手に開示しているとは言えない。バランス感覚が重要だ。

 日本やアジアのコピペ、(中国の場合は、「あなたのものは皆の者、役に立っているものをどうして独占するのか?」という独特の論理が有るように思える)は、たやすく人を無気力にさせてしまう。 旧共産圏もイノベーションが停滞した。

 先行者利益が奪われる社会では、イノベーションは起こり得ない。

夏目漱石は100年以上前から作中の「高等遊民」を通じ、現在の「無気力社会」の到来を予測していたようだ。

・・・・力、・・・・するな、・・・しなさい、の類は究極の思考停止

 解釈や答は一つではないのだが、「・・・・力、・・・・するな、・・・しなさい」というタイトルの本ばかりが本屋の目立つ所に置かれている気がする。

 筆者は、この類を「不安煽りビジネス」と呼んでいる。

国境までの歩行禅:ウクライナ・スロヴァキア国境(ハプスブルグの面影を求めて:その12)

ウージュホロドのバスターミナル

バスターミナルから国境越えルート予想図




 ウージュホロド(Ужгород)のバスターミナルに12:20に到着、市内バスを探しそうとした所で目つきの鋭い人にロシア語かウクライナ語で声をかけられた。


 無視した所、「Halt」と言われ肩をつかまれた。身分証明書を見せながら警察と名乗り「パスポートを見せろ」と言われた。周りを見ると他にも私服警官が同じような事をやっていた。やむなく、パスポートを見せる。賄賂こそ要求はされなかったものの、何となく後味が悪い。

 調べてみると、他の旅行者もこの街の鉄道駅で私服警官の職務質問に会っている様だった(当該ブログ参照)。


 恐らくEU側の要請によって、国境付近の不審者警備をウクライナは行わざるを得なかったのだろう。そういった事がEUからの補助金要件なのかもしれない。 


 現にシュンゲン条約でロシアと国境を接するエストニアやラトビアの国境警備では、ドイツからの最新鋭機器が提供されていると聞いている。(ネットではこんな情報が残っている)


 チェコとスロヴァキアに分裂した際に、ドイツがチェコとスロヴァキアの境界に最新鋭の監視装置を提供した事実はタジキスタンで亡くなった筑波大学の秋野先生の記事にも載っていた。 フィールドワーカーだった秋野先生の著書(
ユーラシアの世紀―民族の争乱と新たな国際システムの出現も面白い。北海道大学のスラブ研究所にある追悼HPなどもお勧めだ



 気を取り直して町外れの空港行きのバスを探す。 その系統番号のバス停を幾ら探しても見つからない。
「英語が出来るか?」と数人に問いかけても、老若男女とも首を振るばかりだ。

 「ゴー フォー スロヴァキア ボーダー?」と別の系統のマルシュルートカ(乗合バス)の運転手に大声で聞いて見るとこれもまた駄目だった。


 満員のバスの後ろから「スロヴァキア XY$!!」という声が上がった。何故か、乗客が「後ろの方に来い」と言う感じで手を引っ張る。

 どうやら、近くまでは行けるのかもしれない。キリル文字で地名位は読めるが、英語もドイツ語も通じないので、やれやれという感じである。

 バスはどうやら、国境の方に向かっているのは道路標示で判ったのだが、そのうち右折してしまい、自分の思惑とは違う方向に行きそうであった。 曲がり角でバスは停止し、隣の客が「降りろ、スロバキア XY$!!」と降りる事を促す。

 自分の座席の右側に何故か扉が付いており、インナーハンドルを引っ張ると空いて降りる事が出来る。日本なら「非常扉」の筈なのだが・・・
 
バスなのに乗用車の様なインナーハンドルが・・・

椅子の横にある扉、これって非常口では??


 隣の客達が指をさし「あっちがスロヴァキア XY$!!」と言う。 自分が見てきた地図と若干違うのだが、何か裏道でもあるのだろうか。 親切心から、彼らが「ここを曲がればスロバキア XY$!!」と言った感じで訴えている。

 狐に化かされた気持で歩いて行くと、確かに「スロヴァキア・・・」であった。


ウージュホロドのスロヴァキア「領事館」

 彼らは「スロヴァキア領事館」を案内しようとしていたのだった。

好意は有難かったのだが、遠回りになってしまった。

日曜日でもあり領事館職員に道案内をしてもらう訳にもいかないだろう。

印刷しておいた地図を改めて確認すると、国境とは違う方向に領事館が有った。

幸いにも、さほどずれてはいないので、国境に向かって心を入れ替えて歩く。


「六根清浄・・・」といつの間にか唱えている自分がいたのであった。

暫く歩いて行くと、国境方面の道に辿り着いたようだ。

右方に方向表示板を発見

国境方面にソ連製乗用車が向かう。経済格差を実感。

БРАTICЛАВА とあるのが BRATISLAVA

国境まで3km位の地点に居るようだが、荷物を軽くしておいて正解だった。

ルーマニア領事館

国境に向かう道にスロヴァキア領事館が無く、ルーマニア領事館が有るのは何故だろうか。


ド派手な教会?

 道すがら、温厚そうなおじいさんにニコニコしながら片言のドイツ語で話しかけられた。
「日本から来てスロバキアに向かう」と伝えると大きく頷いた。
ウクライナ語は全く判らない事を伝えても、嬉しかったようで何か話がしたいようでもあった。

 残念ながら、国境通過を急がねばならないので「私は直ぐに行かなければならない」と伝えると、何故か、手の甲にキスまでされてしまった。この地方独特のものなのだろうか。

「おじいさんも健康に気を付けて」と挨拶をして国境に向かう道を歩く。

予想外の連続で、なんとなく「ドラクエ」の主人公になったような気だ。

国境への道の木々の根元には白ペイント

国境へ向かう道はとてもまばらで、空港も本当に有るのか微妙な雰囲気。

空港と判る看板はこれだけだった

 しかし、正式名称はUzhhorod International Airport(国際空港)。滑走路の90m先は国境なので、離着陸の際は必ずスロヴァキア領上空を飛行するらしい。キエフ行きが発着していた筈なのだが、空港の公式URLが発見できなかった。


ブラスチラヴァまで515キロ

 国境に向かう道には、両替所があったり、休業中のレストランなどが点在。シュンゲンエリア内外を分ける物々しさは感じられなかった。

どうやらこの向こうに国境が有るらしい

道の先に、踏切の様なものを発見。国境にしては素朴すぎる・・・???

この時点で、その「踏切」で「まさか」という展開になるとは思わなかった。

なかなか厳しい「歩行禅」である。

(2014/05/19記)




2014年5月16日金曜日

日本の植民地経営を考える(フランス軍退役将軍の強烈な一言)

 植民地の存在についての善悪を問うものでなく、

 自分の父が勤めていたフランス系企業にはフランス軍の退役将軍が役員として名を連ねていた。或る時、父の上司が、退役将軍に「フランスは良いなあ、いい所に植民地を持っていて。日本は戦争で負け植民地を失ってしまった」とつぶやいた。将軍は一言、「君たちの先祖がバカだったんだろう」

 勇敢に戦っても負けは負け。負けから教訓を得ねば、何時まで経っても

2014年5月15日木曜日

歳を重ねるからこそ新しい学習や言語習得が重要

 若い時は知らず知らずの内に能力が伸びるが、勉強する事を怠れば次々と能力は低下して行き、昨日の自分と今日の自分が変わらない、と言う事になっていく。

 ましてや、定年を過ぎてしまえば、人生の目的を大きく失ってしまう場合もある。そして、人生が80歳と言われる時代、人生の半ばで人生の目的を考えさせられる事も有る。

 筆者は、働き盛りの頃、要職を投げ打って、ライフワークの研究をするためにBirkbeckに大学院留学を行った。様々な理由があったが、その中での最大の危機感は、リストラ対応に忙殺され消耗戦を強いられていくというものであった。当座は自分のスキルで対処できるとしても、過去のスキルのみに依存して生きる事は個人も企業も出来ない。

 高給が保証されるであろう世界だが、狭い視野に陥っていると感じた。

 預金通帳の残高がどんどん減っていくのを実感し、これからは「生涯現役」でこなせるようにスキルアップも図らねばならないし、若き競争相手が次々と現れてくる。

 

2014年5月14日水曜日

一味違うイギリス観察本

林望氏や貴族と離婚したのに称号だけは手放さない女性()の本に飽きた方向けです。

『ハマータウンの野郎ども』
『イギリス型〈豊かさ〉の真実』

2014年5月12日月曜日

リスク管理(ヨーロッパ旅行編)


イースター前後は学校も休講となり、キリスト教圏の学生は本土に戻ってしまう。

スリ被害情報(トリップアドバイザー)


世界の水事情(トリップアドバイザー)

ノルマンディ上陸作戦博物館(ポーツマス)

ロンドンから海を求めると、ブライトンやポーツマスあたりが一泊二日で便利だろうか。

近現代史、ということになると、イギリスの博物館は充実している。

ノルマンディに行く場合でも、ポーツマスからフェリーが出ているようだが時間はかかる。そこで手っ取り早く、ノルマンディ上陸作戦を知ろうとした場合、D-Day museum がおすすめだ。

なお、ビジネスとノルマンディ上陸作戦の関連性に関しての、日経から出ている記事が面白い。

巨大組織にみる緻密すぎる計画と局所最適化の弊害












駅からは離れている

エストニア・ヴァルカで「有坂」を発見!



拡大すると「ARISAKA Japan」と書いてあるのが判る



Wikiによれば、「 エストニア独立戦争にて、エストニア防衛同盟が.303ブリティッシュ弾仕様の有坂銃を運用」とある。



エストニア側のヴァルガにある軍事・警察博物館





日本とロシア、忘れ去られた連合国



もうひとつのフランクフルト・ポーランドへの玄関

ウクライナ・去りがたきリヴィウ(ハプスブルグの面影を求めて:その11)

いよいよリヴィウともお別れ、ウージュホロドへ向かう落ち着きのある街・ホテル、そして美しいホテルのお姉さんも見納めか…………


ウクライナの女性は美しく親しみやすい(気がする・・・)


1901年創立の重厚な面影



リヒャルト・シュトラウス、フランツ・リストなど名だたる音楽家、宇宙飛行士のガガーリンもも訪問したとホテルのWebサイトに出ていた。

George Hotel (Lviv)



天井の高い居室


懐かしいブラウン管テレビ


ソ連製のエレベーター


泊った階は共同シャワー


シンプルな洗面台


おいしく頂いた朝食


朝食会場

夜のリヴィウ


旧ソ連というよりも中欧の石畳の落ち着いた街


レンベルグはオーストリア・ハンガリー時代のリヴィウの名前


このレストランは貸切で入れなかった、残念


ホテルの近くのファーストフード店で夜ごはん

 バスは早朝発という事で、ホテルからはタクシーを予約。朝食をランチパックにしてもらい、夜明けのホテルをあとにした。ちょっと感傷的になる自分を認識。

 タクシーはそんな感傷など関係なく郊外に向かって行った。出庫のトロリーバスがノロノロと対向車線を走って行く。
ソビエト時代の工場への出勤はトロリーバスやトラムだったのだろうか。冷戦が終結して四半世紀が経とうとしているのだが、人々の生活で変わっていない事の方が意外に多いのではないか、と想像して見る。

旧社会主義国はどこも長距離のバスターミナルが郊外にある。


夜明けのバスターミナル


酔っ払いや外国人から恵んでもらおうという輩もいるので余り長居したくない場所ではあるし、本当に寒い。

でも夜明けの空の美しさにしばし見惚れてしまう。いよいよ出発だ。


(2014/05/12記)

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2014年5月2日金曜日

ウクライナからスロバキアへの国境越え計画(ハプスブルグの面影を求めて:その10)

いよいよ、 西部ウクライナから南下しスロバキアへの国境越えの旅が始まる。


キエフは地図右上黒四角部。リヴィウはポーランド国境に近い

リヴィフ  Lviv からスロバキアの目的地コシツェKošice を単純に調べるとグーグル地図では車で3-5時間なのだが、別途、国境検問で数時間を要する筈だった。 さすがに車を直ぐにはチャーター出来ないだろう。

公共機関では
(1)列車(ハンガリー経由)で12時間 (Lviv   8:14 ->Košice 19:50)
(2)別の都市から夜行バス(国境でのチェックで下ろされる)でやはり合計で10数時間かかる

 (3)さらに調べると、ウージュホロドUzhgorod/Ужгород)の町の郊外に国境通過点がある事が判った。
あるブログを読むと、徒歩で国境を通過できるように思えたし、別の海外のサイトでも国境が歩いて通過できるように思えた筆者はこのルートをベースとした。



一応、歩くと6.7kmということだった


 このあたり、国境自体が複雑に動いているせいか、真っすぐ行けばすぐ着けそうなのに、検問所は限られ、なかなかそうはいかない。何といってもシュンゲン条約の外側から陸路で入ろうとするからだ

 リヴィウからウージュホロドのバスターミナルまでは長距離バス(7:10 -> 12:10)、バスターミナルから国境通過点の傍にある空港まで市内バスの便、さらに国境通過後のスロバキア側 Krčava / Vyšné Nemecké からKosice (16:00 ->18:15) のバス便を確認。

これなら、国境での時差や出入国審査でも大丈夫な筈だった(後から意外な結果となるのだが-このちルートを考える人は必ず続編を確認する事)。



購入もできるサイトだった

ウクライナ長距離バス検索サイト(英語)

ロンドンからウクライナの長距離バスのチケットが購入できた(2013年10月)が事態は流動的。






Marshrutka (市内の乗り合いバス地図)



スロバキア側は検索だけ

スロバキア側 バス時間チェックサイト


ポーランドやロシアに行った時の経験で、地方都市のバスでの乗降時に英語が通じる確率は低い事は判っていたので、事前の情報収集は出来る限り行っておくことが肝要だ。

ましてキリル文字ともなれば、地名の読み書きすら怪しい。

ローマ字→キリル文字変換(Webサイト)

などもスマホのブックマークに入れておくとよいかも。

持参する携帯電話のローミング適用かどうかも、要確認です。筆者はVodafone.UKの
現地ローミング先を確認しましたが、EU圏とは違い、Vodafoneが無く地場の携帯会社だった



さて、国境越えに何が待ち構えているのか???

(2014/05/01記)


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