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2025年7月30日水曜日

拙著『プラハのオペラ座(第二版)』が国会図書館に納本され閲覧できる様になりました。

My travel essay is now held in National Diet Library(NDL), Japan.  拙著が国会図書館に納本され閲覧できる様になりました。大袈裟に言えば「エリック藤牧の著書の存在」がアーカイブされたわけですね  なお、北大図書館や放送大学、他幾つかの自治体図書館や高専にも所蔵されています

2024年2月25日日曜日

ラジオ出演@FMくしろ(Spotifyでも聞けます)

旅とか、鍼(はり)とか、出版とか・・・釧路と世界がつながる濃厚なトーク。 Spotifyで全国でも聞けます♪ ▼2月25日(日)14時《ON-AIR》 【旅する鍼灸院~SUDOさんのツボ探検~】に出演します。 🎧番組はスマホ・PCでもお聴き頂けます 🎧ポッドキャストで音声配信中です 音声配信プラットフォーム『Spotify』で。ポッドキャストでは「番外編」も配信中 #釧路 #FMくしろ #エリック藤牧 #クナウこぞう文庫 #プラハのオペラ座 #旅する鍼灸院 #SUDOさんのツボ探検 #あんずの種 #開業論 #日本鍼灸普及協会 #NAPA #鍼灸治療 #宮古島 #東洋医学 #Spotify

2023年10月16日月曜日

<出版告知続報>

『プラハのオペラ座 -旅に生きる-』
紙版は
https://amzn.to/3LHeUJ0
Kindle版
https://amzn.to/3wwKrZF

「旅やオペラとの出会いが人生をポジティブに変えた」。
日系・外資系企業勤務、社会人大学院留学の傍ら126回以上の北海道訪問、
世界36カ国を旅し、国内外の近現代史に関心を深めてきた著者。
これまでの旅や目標達成のエピソードを厳選、生涯学習戦記の第一弾とした。次世代の方々の進路や学び直しの参考に。
 62のエピソードでつづる北海道と中東欧を中心とした旅と歴史、学びのエッセイ。

例えば、 ナポレオンと初海外旅行 (1978年)
人生を変えた北海道旅 (1991年)
生きがいとなったオペラ (1992年)
私のPDCA (旅と業務革新) (2002年)
中欧越境マウンテンバイク旅 (2002年)
シベリア鉄道で欧州旅 (2010年)
大学院留学で奮闘 (2012年)

北海道一周自転車旅で健康を取り戻す(2022年)
台湾自転車旅と親友一族との交流 (2023年)
※複数エピソードを纏め、要約し例示。 また、長期休暇取得(ヨーロッパ自転車旅)のために業務改善で成果をだしたエピソード、北海道一周を分割し自転車で完遂した旅を含め、「決意は現実化する事」や「大目標を分割し着手し大きな成果へ繋げた」具体例も上げ、旅とビジネス遂行の共通点にも触れた。
訪問地地図や地名リスト付

2023年9月29日金曜日

<出版告知> 10/25 に旅と歴史の初エッセイ 『プラハのオペラ座 -旅に生きる-』を十勝のクナウパブリッシングから刊行します。原点は北海道。中東欧への旅とオペラが人生を変えた。 詳細は 電子書籍版も10/25の発売時点で購入できる様に準備中です。よろしくお願いします

2014年12月31日水曜日

コシチェにユーシン?? (ハプスブルグの面影を求めて:その20)

 旧市街の外れにある宿から空港行きのバス停があった。そこからコシチェ空港に向かうバス停で、不思議な響きの停留所をみかけた。「ユーシン」とあり日本語の響き。

    (Wikipedia より)


このコシチェではたった一泊だったが、市の中心部はオーストリアーハンガリーの面影を 色濃く残していたことを実感できた。

旧市街の真ん中の広場と教会、市庁舎があり、人々はそこに集う。

駅や空港に降り立った時、そんな安心感も有るからヨーロッパを旅できるのかも知れない。

その中東欧が日本勢を含め欧州での自動車産業の低コスト生産拠点となって久しい。冷戦後、フォルクスワーゲンを始めとして西ヨーロッパの自動車メーカーや部品産業は、東シフトを敢行した。日本ではスズキがハンガリーでいち早く1992年から現地生産をはじめた。理工系を重視した教育水準と安い労働力の確保ということになること、そして社会主義時代の停滞した工場は見捨てるなどの条件が重なったからなのではないか。当初はチェコが注目されたが、より安い労働力を見込み、その勢いはスロバキアやルーマニアに及んでいる。
    その一環が、空港に隣接した形で、2013年に株式会社ユーシンがフランスのヴァレオ社から事業ごと買い取ることになり、バス停のなまえも『ユーシン』となったいきさつのようだ。233百万ユーロで1200人の従業員ごと譲渡と地元でも報道もされた。
空港で日本人ビジネスマンらしき人々を見かけたのもそういったことかもしれない。
この先、労働コストをさらに下げようとするならば、より東方のウクライナということも考えうるが、国境管理による物流コストや所要時間や、労働コスト、地政学リスクなどを考えるとまだまだ先の事なのだろう。
ハプスブルグの面影を追いかけながら、中東欧でのビジネスのことも気にしつつ私はコシチェの空港のラウンジで佇んでいた。

(2014/12/31)

2014年10月5日日曜日

留学準備(「在外日本人」海外に長く住むと言うこと)

 留学・移住を考えているならば、ネット検索などで華々しい話や厳しい話も引っかかってくるだろう。 

 進路や留学について考えが迷った時にこの本を読んでみると、「へぇ―」という驚きと共に畏敬の念に駆られるかもしれない。自分自身も漠然と留学をする事を考えていた時から、何度も読み直していた。 色々な分野の人生を垣間見ることで、自分のレールを考え直すことはあるかもしれない。 順調とされたキャリアパスを捨てたとしても、違う道を歩む事や少し考える時間を確保する事は長い人生では必要な場合が有る。 

 本や勉強だけでなく、良い音楽や絵画、総合芸術などに触れる事も人生を大きな影響を与える場合もある。 勿論、人に出会うことで人生が変わる場合もあるだろう。

BBC PROMS コンサート
 

 この本は1994年に書かれたが、情報が無かった時代だけに本質的な悩みや、厳しく自己に相対してきた人々の言が率直に集められている。冷戦下の中東欧の話もあり、期せずして、先日お話を伺った元商社マンとチェコで一緒に仕事をした人についても、収録されていた。 また、冷戦下、ウクライナ人のヴァイオリニスト女性と恋に落ち、KGBの勧誘を受けながらも断った人、敗戦後に中国に留まり技術指導をした鉱山関係者、ベルリンやチェコで指揮者として人生を歩んだ人など、40カ国65都市でインタビューしたノンフィクション集である。 



 サラリーマンや公務員になるのも人生だけれども、こんな人生もあるよ、という2008年に亡くなった著者からの静かなメッセージ集とも読める。

ポチッとお願いします。




(2014/10/5記)


2014年10月1日水曜日

ハンガリーだったスロヴァキア(ハプスブルグの面影を求めて:その19)


約百年前まで、大部分がハンガリー領だったスロヴァキアには、東部を中心として今なおハンガリー系の人々が住んでいる。ここ、コシチェの街にはハンガリー風の名前を持っていた著名人のレリーフや記念碑がそこかしこにあり、ハンガリー国旗風の飾り付けが記念碑に飾られている。


 このスロバキア第二の都市は、 ハンガリー語でKassa,、ドイツ語ではKaschauと呼ぶという。

  第二次大戦中の共産系反独レジスタンスの契機となった中部スロヴァキアや首都ブラチスラバとも雰囲気が異なる。独立運動と深い略語SNPと言った単語はこの街では目立たない。

テレジアンイエローは中欧のシンボルの一つ

   当地で生まれた作家Márai Sándorの博物館にふらっと入ってみる。知らなかった作家だが、各国語にも訳されていた。世界各国に住みアメリカで一生を終えたが冷戦下のハンガリーでは発禁だったという。

パスポートは何処の国のものだろう?


NAMESTIEは広場の意

韓国語バージョン

   受付嬢がIELTSのテキストを読んでいたので声をかけると、近々イギリスに留学するらしい。幾つかTipsを授けて後にした。

旧市街の表通りは綺麗に整備されている

戦災や経済活動で変容してしまった西ヨーロッパの都市と違い、開発が遅れたが故に古いものが大切に使われている。何だかホッとするのはそのためだろうか。


 テレジアンイエローと秋の空

  ハプスブルグ時代の面影を強調するように、テレジアンイエロー(マリア・テレジア好みの黄色)で彩色された建物が目立つ。

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(2014/10/01記)

2014年9月19日金曜日

東スロヴァキア今昔(ハプスブルグの面影を求めて:その18)


 東スロヴァキア、この地域の国家帰属や人口構成は複雑だ。19世紀末のアメリカ・ペンシルバニアに大量移民が行われたという事だった。第一次大戦後にオーストリアハンガリー帝国が崩壊する迄、このエリアはハンガリー領だった。チェコスロバキア独立とともにハンガリーから分離、1938年から第二次大戦の間は再びハンガリー領となった。第二次大戦後、ドイツ系とハンガリー系住民は追放され、スロバキア人優位となる。

 島国である時代の長い日本には判りにくい概念だが、旧満州や樺太などでは同じ事が起こっていることは記憶に留めておくべきだろう。

コシチェの目抜き通りはEU補助金で整備された


ウクライナ国旗の配色に似た旗


一方で社会主義時代の名残もそこかしこにある。

 当地で生まれたハンガリー系スロバキア人の労働運動活動家Schönherz, Zoltánが第二次大戦中にブタペストで処刑された事を記したメモリアルプレートがあったりする。

Schönherz, Zoltán のメモリアルプレート

ソ連兵のメモリアルも駅近くに鎮座。

共産時代のメモリアル




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(2014/09/19 記)

2014年9月6日土曜日

東スロヴァキア:ビールとステーキで乾杯(ハプスブルグの面影を求めて:その17)

  コシチェ(Košice)に列車は到着。町外れの駅前はシュコダ(チェコ製)のトラムがトロトロ走っていた。
社会主義時代を色濃く残すKošice駅前

   目指すは旧市街のはずれにある山小屋風の宿だった。休日であるせいか、道端のキヨスクも休み、宿の階下にあるビヤホールも早々に店仕舞いであった。
    ややくたびれた感のある宿の中は、どこか北海道の美幌ユースホステルに似ていた。

屋根裏部屋と小さなベッド

山小屋・ユースホステル風の廊下


    宿の名前は「K2」、管理人も元ヒッピーという雰囲気。シャワーを浴び、近くのステーキハウスに向かう。ヨーロッパの地方旅の面白さは、歩いていて「ここは良さそう、旨そう」という勘が働きやすい事があるかもしれない。特に町外れなど地元の人向けのお店ならば意外にコスパが良いことも多い。

U Troch Ruzi

   スロバキアに戻って来たので、旨いチェコビールでまずは乾杯。

ピルスナーウルケル
熟成したお肉を捌いている部屋が見える

極上の肉が木製のトレーで供されて来た

部位別にメニューの説明が有る



 たった80kmでもウクライナから離れると、大空の雰囲気や平原自体は変わらないのだが、街の雰囲気や道路の舗装状態が著しく違う事に気付く。

看板もキリル文字はもはやなく、どことなく見慣れたものになっている。

ただいま、EU、スロバキア!




スロバキア情報関係サイト


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(2014/09/07記)

2014年8月24日日曜日

ヒッチ続行:スロバキア鉄道駅まで向かう(ハプスブルグの面影を求めて:その16)

なんとかシュンゲン域内に入ったので、バスを乗り継げば今日の目的地コシチェKosiceに着けそうだ。だが、もっと早くつく方法がひらめいた。ヒッチハイクを続行すればいいのだ。
 

ウクライナ国境でのせてくれたバスのドライバーに、地図を見せ国際列車の通るルート上の何処かで降ろしてくれるか聞いてみた。
 
 
「いいよ」と快諾を得たので運が良かった。コーヒーでも飲んで、とチップを渡そうとしたが、「要らない。でも大丈夫」と運ちゃん。実直そうな彼に感謝した。

昔の映画を見ると、主人公が田舎で見知らぬ人の馬車に乗せてもらうシーンがある。

敵対関係になることもあれば、民族を意識しない相互扶助の精神が息づいているのかもしれなかった。

 同じヨーロッパ、100年前までは同じハプスブルグ帝国内、そして第二次大戦中から戦後にかけての混乱期、人々はどの様な交流をしていたのか?  これも気になるテーマだ
 
短いウクライナの空を彼方に眺めながら、バスは国境を後にした。
 

 
キリル文字が消え、建物の作りも変わっていく。そして広告の量が変わり、工場の看板も増えていく。

今やスロバキアは自動車部品業の進出が著しい。この街MICHALOVCEにも矢崎総業やプジョーの看板も見え、部品メーカーの工場もあるようだった。人口は4万人弱

道路もこころなしかウクライナよりは良かった。EUの補助金が投入されているのだろうか。

バスはMICHALOVCEの鉄道駅に着いた。目の前にはバスターミナル。ヨーロッパでは駅は町外れにあるのが定番。鉄道駅と長距離バスターミナルが別々の場所にあるケースもしばしばある。

列車時刻表を調べたら、当初よりも早く到着できそうだった。

客車列車に乗り込み、車窓を楽しみつつコシチェに向かった。
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2014年8月10日日曜日

東欧ビジネス戦記―ある商社マンの記録(冷戦下のチェコスロバキア) 執念とロマン、絶望と再生の記録

 冷戦下、といっても大学院留学を考えている諸兄諸姉の生まれる前の話で、「ベルリンの壁崩壊」などと言ってももはや遠い歴史上の事なのかもしれない。

 その時代の中東欧については、主に現地留学組かジャーナリストによる著作が多いが、日商(現双日)の商社マンが、社会主義体制下で売り込みを賭け、味方になってくれた現地の人々も含め活写した作品だ。

 この著作が「ビジネス絡らみのエッセイ」とも「学者のエッセイ」とも大きく異なるのは、人生の栄光と挫折そして再生の記録である事だ。

 著者は絶好調のさなか難聴となり商社を退職せざるを得なくなり人生の絶望に立たされた折にベルリンの壁が崩壊。かっての「ビジネス戦記」を書く中で本来の自分を取り戻して行く再生の物語でもある。

東欧ビジネス戦記―ある商社マンの記録



 体制は違えども、人間の営み、感情には共通のものが有る事や複雑な各国の民族意識の違いも浮き彫りになっている。

 こういった諸先輩方の知られざる活躍のもと、敗戦後の国際状況下、日本は高度成長を遂げていた事を一人の男の視点から活写している。

 私のブログのタイトルは、大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)に影響されて付けた物だが、此方の本も「戦記」である。
 こうした諸先輩方の様に華々しくは無いが、自分の学びの集大成としても自身のブログを死ぬまで書いていきたいと思う。

 そして、「東欧ビジネス戦記」の著書がライフワークとして、著作に登場させた人々の「その後」を現地ルポした続編をWebサイトにアップしているので併せて一読を薦める。



2014年8月1日金曜日

国境免税のカラクリ(ハプスブルグの面影を求めて:その15)

 バスはスロバキア側の検問所の手前でUターンし駐車場に停車した。

国境では写真撮影は制約が多い

 バスの客も、国境で一緒にヒッチハイクした兄ちゃんたちも一斉に駆け出して行った。

ウクライナとスロバキアの間には、免税店がある、皆、それがお目当てだった。

    車だけの国境、という事情の一端が読めて来た。歩きでいいなら、近隣から来て混雑してしまうからかもしれなかった。
   さっきの兄ちゃん達は、スロバキアに住んでいるのだろう。


   バスの中は自分独りだった。いつバスが出発するかもよく分からない。 国境線上で取り残されるのは絶対にマズい。

   ドヤドヤと人々が戻ってきた。30分位は居たのであろうか。バスはノロノロとようやく、スロバキア側の検問所に移動した。

 係員が再びパスポートを回収していく。そして全員が降ろされ、X線検査機のある別室に移動した。銃器の密輸を防ぐ為だろうか。麻薬を探す犬たちもいたようだ。

ウクライナ産ビールは持っていたが、本当は免税店でウォッカが欲しかった・・


  列に並ぶと老婆がウォッカの瓶を手渡し「○×△□oooooOOO」と言ってきた。他の人は1本ずつ持っているので、規則を超えて買ってきたものを税金払わないで済まそうとしているようだった。
    「言葉も通じない独りだけいる東洋人に預けるかいな??」と思って英語で、「責任持てないよ」と何回かジェスチャー混じりで断わったら分かったらしく、他の老人に頼んでいた。皆大笑いだった。係員はいないので、まあいいけどユル過ぎる。

スロバキアナンバーのバスでスロバキア国籍の人々は比較的簡単な扱いのようだった。。しかしウクライナナンバーの車では荷物を全部だし、トランク内も開けられ麻薬捜査犬も鋭い目つきで越境者をチェックする

   ドイツの肝いりで国境管理システムが導入されたと聞いている。 シュンゲンエリア外のあらゆるリスクをここでブロックしなければ、EU圏が混乱に陥る。


美しい空には国境は無かった

    しかし、国境とは何だろう、といつも考えさせられる。

    なぜなら、物理的に生まれた距離が違うだけで、同じ民族的ルーツをもっていたとしても法的に持つ権利がことなってしまう可能性があるからだ。

   そんなことを考えながらバスに戻った。

   さて、スロバキア側の国境で接続するバスはきちんと乗れるのだろうか? ある考えが閃いた!(続く)


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2014年5月19日月曜日

国境までの歩行禅:ウクライナ・スロヴァキア国境(ハプスブルグの面影を求めて:その12)

ウージュホロドのバスターミナル

バスターミナルから国境越えルート予想図




 ウージュホロド(Ужгород)のバスターミナルに12:20に到着、市内バスを探しそうとした所で目つきの鋭い人にロシア語かウクライナ語で声をかけられた。


 無視した所、「Halt」と言われ肩をつかまれた。身分証明書を見せながら警察と名乗り「パスポートを見せろ」と言われた。周りを見ると他にも私服警官が同じような事をやっていた。やむなく、パスポートを見せる。賄賂こそ要求はされなかったものの、何となく後味が悪い。

 調べてみると、他の旅行者もこの街の鉄道駅で私服警官の職務質問に会っている様だった(当該ブログ参照)。


 恐らくEU側の要請によって、国境付近の不審者警備をウクライナは行わざるを得なかったのだろう。そういった事がEUからの補助金要件なのかもしれない。 


 現にシュンゲン条約でロシアと国境を接するエストニアやラトビアの国境警備では、ドイツからの最新鋭機器が提供されていると聞いている。(ネットではこんな情報が残っている)


 チェコとスロヴァキアに分裂した際に、ドイツがチェコとスロヴァキアの境界に最新鋭の監視装置を提供した事実はタジキスタンで亡くなった筑波大学の秋野先生の記事にも載っていた。 フィールドワーカーだった秋野先生の著書(
ユーラシアの世紀―民族の争乱と新たな国際システムの出現)も面白い。北海道大学のスラブ研究所にある追悼HPなどもお勧めだ



 気を取り直して町外れの空港行きのバスを探す。 その系統番号のバス停を幾ら探しても見つからない。
「英語が出来るか?」と数人に問いかけても、老若男女とも首を振るばかりだ。

 「ゴー フォー スロヴァキア ボーダー?」と別の系統のマルシュルートカ(乗合バス)の運転手に大声で聞いて見るとこれもまた駄目だった。


 満員のバスの後ろから「スロヴァキア XY$!!」という声が上がった。何故か、乗客が「後ろの方に来い」と言う感じで手を引っ張る。

 どうやら、近くまでは行けるのかもしれない。キリル文字で地名位は読めるが、英語もドイツ語も通じないので、やれやれという感じである。

 バスはどうやら、国境の方に向かっているのは道路標示で判ったのだが、そのうち右折してしまい、自分の思惑とは違う方向に行きそうであった。 曲がり角でバスは停止し、隣の客が「降りろ、スロバキア XY$!!」と降りる事を促す。

 自分の座席の右側に何故か扉が付いており、インナーハンドルを引っ張ると空いて降りる事が出来る。日本なら「非常扉」の筈なのだが・・・
 
バスなのに乗用車の様なインナーハンドルが・・・

椅子の横にある扉、これって非常口では??


 隣の客達が指をさし「あっちがスロヴァキア XY$!!」と言う。 自分が見てきた地図と若干違うのだが、何か裏道でもあるのだろうか。 親切心から、彼らが「ここを曲がればスロバキア XY$!!」と言った感じで訴えている。

 狐に化かされた気持で歩いて行くと、確かに「スロヴァキア・・・」であった。


ウージュホロドのスロヴァキア「領事館」

 彼らは「スロヴァキア領事館」を案内しようとしていたのだった。

好意は有難かったのだが、遠回りになってしまった。

日曜日でもあり領事館職員に道案内をしてもらう訳にもいかないだろう。

印刷しておいた地図を改めて確認すると、国境とは違う方向に領事館が有った。

幸いにも、さほどずれてはいないので、国境に向かって心を入れ替えて歩く。


「六根清浄・・・」といつの間にか唱えている自分がいたのであった。

暫く歩いて行くと、国境方面の道に辿り着いたようだ。

右方に方向表示板を発見

国境方面にソ連製乗用車が向かう。経済格差を実感。

БРАTICЛАВА とあるのが BRATISLAVA

国境まで3km位の地点に居るようだが、荷物を軽くしておいて正解だった。

ルーマニア領事館

国境に向かう道にスロヴァキア領事館が無く、ルーマニア領事館が有るのは何故だろうか。


ド派手な教会?

 道すがら、温厚そうなおじいさんにニコニコしながら片言のドイツ語で話しかけられた。
「日本から来てスロバキアに向かう」と伝えると大きく頷いた。
ウクライナ語は全く判らない事を伝えても、嬉しかったようで何か話がしたいようでもあった。

 残念ながら、国境通過を急がねばならないので「私は直ぐに行かなければならない」と伝えると、何故か、手の甲にキスまでされてしまった。この地方独特のものなのだろうか。

「おじいさんも健康に気を付けて」と挨拶をして国境に向かう道を歩く。

予想外の連続で、なんとなく「ドラクエ」の主人公になったような気だ。

国境への道の木々の根元には白ペイント

国境へ向かう道はとてもまばらで、空港も本当に有るのか微妙な雰囲気。

空港と判る看板はこれだけだった

 しかし、正式名称はUzhhorod International Airport(国際空港)。滑走路の90m先は国境なので、離着陸の際は必ずスロヴァキア領上空を飛行するらしい。キエフ行きが発着していた筈なのだが、空港の公式URLが発見できなかった。


ブラスチラヴァまで515キロ

 国境に向かう道には、両替所があったり、休業中のレストランなどが点在。シュンゲンエリア内外を分ける物々しさは感じられなかった。

どうやらこの向こうに国境が有るらしい

道の先に、踏切の様なものを発見。国境にしては素朴すぎる・・・???

この時点で、その「踏切」で「まさか」という展開になるとは思わなかった。

なかなか厳しい「歩行禅」である。

(2014/05/19記)