ラベル ソ連・ロシア の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ソ連・ロシア の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年6月11日水曜日

ウクライナでの抑留日本兵(ハプスブルグの面影を求めて:番外編)



先般、舞鶴の舞鶴引揚記念館を訪問し、悲しく苦しい中にも、一筋の光明を見た元陸軍飛行兵の方による版画を見る機会が有った。

一度見てほしい。 

同盟国だったドイツやハンガリー兵、そして敵国であった筈のソ連の女性兵士への仄かな憧れ・・・

旧ソ連抑留画集

この方は東部ウクライナのスラビヤンスク(Sloviansk)で抑留経験を送っている。やはり抑留されたドイツ軍医に命を助けられたりもしている。

一人の人間として絶望の中でも生き残ってきた方だからこそ書ける姿なのかもしれない。

スラビャンスクの地図

スターリンによる大虐殺が起こったり、多くの人々がシベリアに行かねばならないのか筆者自身も想像が付きにくい位に、ロシアやウクライナの青い空は美しかった。

サンクトペテルスブルグ エルミタージュ美術館の前


Lvivの丘の上

そんなことを考えながら、旧ソ連圏を旅する事が多い

読者の近親者が下記の名簿に居られるかもしれないのでリストを掲げておく。
シベリア・モンゴル抑留時志望者名簿(厚生労働省Web)


先の大戦で祖国のために戦った全ての将兵、そして犠牲者に哀悼の意をささげつつ・・・


(2014/06/11記)



2014年5月28日水曜日

西部ウクライナの不思議な歴史(ハプスブルグの面影を求めて:その13)

 ウージュホロドのバスターミナルから国境まで歩いていて、以前訪問した、モスクワ、サンクトペテルスブルグ、カリーニングラードとは、雰囲気の違うエリアと実感した。

 同じ旧ソビエト連邦だったとはいえども、多様なものをに一つにすることはできなかった。

 モスクワやサンクトペテルスブルグには「市場(マルクト)と市庁舎の組み合わせ」が想像できない。
モスクワ クレムリン一帯

モスクワ クレムリン一帯

モスクワ オリンピック時に建てられたホテルから

カリーニングラード 第二次大戦後に再建された部分

カリーニングラード プロイセン時代の面影を残す


カリーニングラードには、ドイツ時代(ケーニヒスベルグ)には有ったはずだが、第二次大戦で無くなっている。

 ちなみに、一橋大の水岡先生の紀行文「ケーニヒスベルクの追憶」は秀逸。

 共産主義政権は狭い所に市民が自然に集まることを嫌ったのではないか。

 そしてだだっ広い広場や道路を作る事を好んだ。

 軍事パレードなどを行い威圧感を誇示する事も出来るし、万が一、デモ等が起こった際に、狙撃や鎮圧も容易にできるからか。

 大規模な爆撃や激しい戦場にならなかったリヴィウとウージュホロドは、幸いにソ連式の都市計画が旧市街に及ぶ事はなかった。

 両市とも昔の中欧のたたずまいを感じさせる旧市街が残るが、異なるカラ―を持っている。

リヴィウはじっくり見学できたが、下記の訪問記はロシア語学科の大学教授だけあって羨ましいフィールドワークだ。

上智大学外国語学部 上野俊彦教授のウージュホロド訪問記 

同教授のリヴィウ訪問記

 昨今(2014年5月現在)、多くのマスコミがウクライナを東部・西部と単純に分けているが、その西部内部ですら異なる歴史を歩んできていたことは余り知られていない。 

 例えば、リヴィウが長期間ポーランドの施政下にあった後オーストリア帝国(帝国直轄領)に編入されドイツ人やチェコ人たちが実権を握っていた。

 一方、ウージュホロドは歴史的にはハンガリー王国の施政下にあった(WIKIによれば、1910年の時点ではハンガリー人が人口の8割でウクライナ系住民はきわめて少数)。

 ウージュホロドは第一次大戦後から1938年までチェコスロバキア、そして1944年まで日本とともに枢軸国であったハンガリーに併合されていた歴史がある。

 どちらの都市も異なる歴史をもっていたが第二次大戦以前はロシア人や共産主義政権に支配されたことはなかった事は確かだ。

 それがゆえに親欧州という共通項があるのだろう。大統領選挙の結果がどう作用するか判らないが、ウクライナはこれからも、欧州とロシアの緩衝地帯であり続けるのではないかと思われる。
リヴィウ ハプスブルグの面影

 歴史を本で読むだけでなく、自分でもその地を歩いてこの目で見てみたい、という気持ちが今回の旅の動機だったので、地域の帰属が変わり、民族構成も変わって来た事実をこれからも知ってゆきたいと、西部ウクライナを訪問し強く感じた。

(2014/05/27記)


2014年4月4日金曜日

ウクライナ リヴィウ オペラ劇場とカフェ(ハプスブルグの面影を求めて:その8)

  前日に見たバレエ(Giselle )はソ連時代の影響も強いと思われるが・・・劇場の建物自体は、オーストリア・ハンガリー時代の末期に建築されたものだった。



それにしてもダンサーたちのスリムな事(動画)・・・

モスクワだと秋口でも寒いのでオープンカフェは想像しにくいが、このリヴィウにはあちこちにカフェもレストランも屋外のスペースを持っていた。


 オーストリア、チェコ、イタリアのトリエステと同じ町のたたずまい。ヨーロッパの最東端で中欧の隠れた魅力にまた引き込まれていく自分を感じる。


 ソ連時代はどうだったのだろうか・・・今度、訪問した時に調べてみたい。

市庁舎前の広場ではお土産の屋台。モスクワではこんなおっとりした商売は信じられない。


ゆったりとした時間が流れ、旧ソ連圏であることをすっかり忘れてしまった。

ピカチュウもどき発見

 短期ならビザ無しで渡航できるウクライナ(2014年4月現在)、治安に注意しながら訪問出来る時に訪問すべきかもしれない。別の国に実効支配されてしまえば訪問も難しくなる。

DTACウクライナ観光情報局 リヴィウ

 民族問題の先鋭化は日本も他人事では無い。現に沖縄の新聞を読むと「中央政府はXX」といった文言が頻出する。
 例えば大田前知事の2011年11月30日の琉球新報の談話記事。「琉球独立」を発信する学会も存在する。 本土で生まれ育った人間には判りにくい構図が共有されている。 日本語を話す人々が違う国家に属する、という構図は今はないが、50年後には判らない。

 イデオロギー終焉・国際協調の時代は完全に終わり、再びブロック経済・帝国主義的な時代が来る前の最期の輝きにならねば良いのだが。

2014年3月21日金曜日

ウクライナ リヴィウ中央駅(ハプスブルグの面影を求めて:その7)

 ハプスブルグの面影を求めて歩いていると、旧市街では町の作りもライフスタイルも、色濃くヨーロッパを感じる。

 市街地の外れに続く路面電車の線路をたどると宮殿の様なものが見えてきた。

大通りとトラムが向かう先は宮殿?

リヴィフ中央駅

 英語版Wikiによれば、アールヌーヴォー調の建築として1904年にオーストリア・ハンガリー帝国時代に建築されたということだ。 

 第二次大戦で被害を受けた後、再建するに当たり「スターリン様式」で復旧すべしという意見も出た。時の設計者は、内装をスターリン様式として外装はオリジナルのもので対処する、という折衷案を提示し、リノベーションが繰り返され今に至っている。

 スターリン時代といえども、完全なロシア化を強行する事はウクライナ民族意識の強い当地では難しかった、という証左なのかもしれない。

ゆったりとした表玄関

彫刻も飾られており、寺院の様な趣?

正面玄関にはアールヌーヴォー調の装飾がある駅名表示があり、華やかな時代を想起させる。

Львівリヴィーウ と書いてある

 暗いが広々とした待合室など構内は、ソビエト時代を想起させるものだった。人がごった返していたので、カメラを取り出すのは憚られた。

 落書きも無く、ホームは日本のものよりも長くすっきりしていた。

ホームにはウッディなキヨスクや電話ボックスが有って、ロシアとの相違を感じる。

キヨスク

ウクライナ鉄道150周年のポスター、電話ボックス

写真をよく見ると、駅のエアコンは富士通製だ。こんな所に食い込んでいるとは知らなかった。というか、日本で富士通製のエアコンは見た事が無いのだが・・・・

一方で、車両はソビエト時代の面影を留めているものばかりだ


西ヨーロッパの標準軌(日本では新幹線)よりも広いので車両の幅も大柄。ただ、トイレは垂れ流しなので、余り近寄りたくない(苦笑)

モスクワ行きの列車

機関車はシベリア鉄道の旅でも見かけたものだった。2M62という重連型で貨物列車を牽引。 日本で言えばDD51という位置付けになる汎用機種だ。

大陸間弾道ミサイル運搬用の派生機種も有ったようだ。

旧ソビエト製のディーゼル機関車

 このまま、どこかの町に汽車旅をしたい衝動をこらえて、駅を出た。

 駅前から町の中心はトラムが走っているが、日本の車両と違い片方にしか運転台が付いていないので、大抵の場合、向きを変えるためのループ線が起終点にある。

駅前のトラムのループ

交通の見張り用建物や後ろにある機関車工場の建物は、ソビエト時代の武骨な建物だ。


 さて、最近のウクライナ事情で色々な方々が論評している。興味深い記事のリンクをいくつか。

欧露の貿易戦争で深い傷を負うのはロシア ウクライナ危機と西欧の苦悩
熊谷徹氏はドイツ在住のジャーナリスト。

混迷極めるウクライナ 「ロシア化」のドミノを恐れる欧米
 コーカサス地域研究家の廣瀬陽子氏がリヴィウ(リヴォフはロシア語読み)について、「西欧に近い」と言及している。現在のウクライナ情勢についてバランス良い論評をしている。


 リヴィウの治安情勢は細かくは判らないが、昨日、リヴィウのオペラハウスとメールのやり取りをする機会が有ったが、様々な政治的動向があっても演目は上演されているようだ。 

 最近、芦田均元外相の『革命前後のロシア (1958年)』という本を読了したが、革命のさなかでもバレエが上演されていた事が言及されていたので、ヨーロッパ社会とはこういうものなのか、と改めて実感する。

   きっかけになった書評はForesight誌の2005年に掲載された「若き外交官補・芦田均による驚くべき記録と洞察」。

 堅いエピソードも色々あるが、観劇の感想や市民生活、独身30歳の彼がロシア女性に言い寄られる描写などもさりげなく盛り込まれており、革命末期の混沌とした世情を生き生きと描いている。 外交官というよりも好奇心旺盛な青年作家という趣きだ。

 ロシア人気質、というものを知るには良い一冊という印象を持った。大学の閉架図書に眠っているかもしれない。興味ある向きには一読を勧める。

 クリミアで今起こっている事は、北方領土や尖閣列島と密接に関わってくるので注視が必要だ。もっと言えば、「沖縄が独立主張」という事態が近未来に起こった場合のアナロジーになるかもしれない。

 リヴィフを訪れたのは、ハプスブルグの面影をたどったり、ウクライナ民族主義の震源地であることを知りたかった為だったのだが、数か月で様々な景色が変わっていく。

 国際協調の時代から、オセロの様にように国境がひっくり返る「なんでもあり」の世界に向かっている時こそ、過去の事象や教訓を認識する必要が高まってくる。

(2014/03/21記)

2014年3月2日日曜日

ウクライナ レジスタンスの光と影(ハプスブルグの面影を求めて:その6)

 リヴィウを訪問した目的の一つは、リヴィウが第二次大戦後も反ソ反独の独立派勢力(ウクライナ蜂起軍)の根拠地の一つであり、今、この地でウクライナ蜂起軍がどのように位置づけられているのかをこの目で見たかったからである。 ここは1945年迄、ロシア(ソ連)の歴史的な領土になった事が無いエリアだ。 

歴史博物館「解放の苦闘」分館 

 第二次大戦後、旧ポーランド領だったリヴィウはウクライナ=ソビエト共和国の一部となる。 そして、ウクライナ蜂起軍のリーダーであったRoman Shukhevychは、1950年にリボフで戦死している。 
 そのためか、この街には、今回訪れた歴史博物館「解放の苦闘」分館 (23-a Lysenka St.) だけでなく、指導者のRoman Shukhevychを記念するMuseum of General-Lieutenant of the UIA Roman Shukhevychの二つの展示がある。

 

歴史博物館「解放の苦闘」分館 

なぜ、この地に反ソ反独の気風が養われたのであろうか? ウクライナのおかれた歴史にある。

 ウクライナは現在では人口45百万人(世界27位)の比較的大きな国家であるが、13世紀のモンゴル侵攻以降、独自の国家を持たず近隣諸国の支配を受け続けてきた。カナダなど海外にいるウクライナ系移民も多い。
 
 大学院の寮で一緒だった、ウクライナ系カナダ人の留学生がウクライナの国章をペンダントに付けていたのを思い出す。彼女は自分のアイデンティティをウクライナに置いているから、と説明してくれた。 佐藤優氏によれば、カナダで3番目に話されている言語はウクライナ語だという。  

 ヨーロッパの穀倉地帯でもあり、天然の要害が無い。美女も多いが故に常に大国の狙う所となったのであろうか。

 ウクライナは、ロシアでの1917年革命以降、独立運動とソビエト化の流れが複雑に絡み合い、最終的にソビエトの一構成国になるのだが、 特にスターリン時代に、ウクライナの人口を減らす事と外貨稼ぎの一石二鳥を狙うため、「ホロドモール(穀物の強制輸出による人口的飢餓や強制移住)」が行われ、数百万~一千数万人の人々が亡くなっている。

 このような状況下、各国の境界に位置していた西ウクライナを背景に様々な政治活動が繰り広げられた。

1939年にチェコスロバキアから独立したカルパート・ウクライナの展示

 カルパート・ウクライナはチェコスロバキアが消滅する前に一部地域が独立したものだ。が、直後、ハンガリーにより併合されてしまう。戦後はソ連庇護のもと再独立。最終的にウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部となる。


ウクライナ義勇兵からなる第14武装親衛隊 武装擲弾兵師団 
ガリーツィエン(ウクライナ第1)の師団章が左腕にある。


ナチスドイツの軍服を着たウクライナ兵(師団章で判る)

 その後、第二次大戦では独ソ戦の主戦場となり、ウクライナ人は、ドイツに協力する勢力、親ソ勢力、ウクライナ蜂起軍の三つ巴状態となり、第二次大戦後も1950年代まで治安が安定しなかった。シベリア送りになった指導者層も多く存在した。

シベリアの収容所の写真や生活の展示も有った


 隣接するポーランド領内もウクライナ蜂起軍の活動拠点であったため、共産政権下のポーランドがせん滅の軍事行動(ヴィスワ作戦)を実施した位に手強いものであった。

ウクライナ蜂起軍のメンバーたち

ウクライナ蜂起軍の拠点・要人等を示した地図。
右上の「赤と黒」は蜂起軍の旗



 このような抵抗運動を多くの日本人は経験していないので、理解しにくい部分も有るが欧州の人々のアイデンティティの中に「レジスタンス」という光と影が色濃く残っている事は見落としてはならないだろう。

現在の国旗と各地のコートオブアームス

ウクライナの歴史については、中公新書の「物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書) 」が判りやすい。 2007年に購入した時から必要に応じて繰り返し読んでいたが、旅行前にも改めて確認の意味で精読。 今回の事態の歴史的背景を理解する上ではお勧めだ。
 

(2014/3/2 記)

宜しければ、ポチっとお願いします



注:この博物館にはウクライナ語でしか展示が無かったので理解に誤りが有る部分が有るかもしれない。誤認識については、ご指摘頂ければ幸いです。

2012年12月20日木曜日

ラトビア独立記念日祝賀会


      1か月前の11月17日、ロンドン(Westminstet Cathedral)で行われたラトビア独立記念日(正式には11月18日が記念日)の祝賀会に出席した。
人口2百2十万人のラトビアは、第一次大戦後、ロシア帝国から独立、その後ソ連による併合、第二次大戦においてドイツによる占領、ソ連による再支配、そしてベルリンの壁崩壊後、独立回復という過酷な歴史を経てきた。

ラトビア人の友人が祝賀会に来ないかと誘ってくれた。かねてから外国の独立記念日の祝い方には興味があり、この留学では「お金を払っても出来ない経験」を最優先にして取り組む見地から、渡りに船とばかりに出かけた。

      式典前に到着すると、会場でコーラスの練習をしていた。なんだかアットホームな感じであり、よく見ると友人も動員されていた(笑)。

イギリスに住むラトビア人は約4万人(日本人は約6万人)、ロンドンにはそのうち1万人が住んでいるという。2百名程度が参加していた。参加者は4割が60代以上、2割が20代以下と言った構成か。

式は国旗掲揚で始まった。大統領のヴィデオレターが続いて放映される。ロシア語ともドイツ語とも違う響きであるが厳かな雰囲気の挨拶であった。

そして国歌斉唱。初めて聞くが、美しいコーラスは歌の国ラトビアならではのものだろう。
駐英ラトビア大使の短い挨拶が続いた。

次のヨーロッパラトビア協会議長の挨拶は官僚的な長文棒読みで好感が持てず、会場も辟易した雰囲気だった。ヨーロッパでもこんなことがあるのかと逆に新鮮だったりする。

一方でとてもほほえましかったのは、子供たちへの表彰であった。彼ら彼女達もなんだか嬉しそうだ。

そして、続くミニコンサートでは、フルート、バイオリン、ピアノが奏でるラトビア出身の作曲家の作品を堪能した。この方面に明るくないが、調和のとれた演奏に心が癒された気がした。

式典のトリは、コーラスであった。民族衣装を着た男女による伝統的なフォークソングが披露された。地域ごとに曲調が違うようでもあり、無論ドイツやロシア民謡とは全く違うものであった。

式典が終わると、民族衣装を着た人たちはダンスを踊っていた。参加者はワインとおつまみを頂きながら歓談。故あってイギリスに住んでいるラトビア人コミュニティを垣間見て考えさせられるのは、「国家のアイデンティティ」あるいは「国民の定義」とは何であろうと言う事であった。

言語と歌こそが、彼らのアイデンティティの拠り所だろうが、民謡が20万曲もあるのには驚いた。ハンザ都市リガに居たバルト=ドイツ人たちが最初にラトビア民謡について研究を試みた、というのもこの地域の歴史の複雑さを示してる。

日本では「バルト三国」とひとくくりにしてしまいがちだが、各々、歩んできた民族、言語、宗教が異なる。ラトビアは歴史的にドイツ民族と共存してきた時代が長く、一方でロシアに支配を受けてきた。

ロシアとの複雑な関係が故に、旧帝国陸軍はバルト海に面する諸国に注目、対露・対ソという共通の利害を持ち、軍事的協力(主に情報面)を行っていた。ソ連による併合前、「バルト三国」に公使館が設置された理由はここにある(通商関係は殆どなかった)。現在でも各国に大使館を設置している。

      ラトビアを始めとしたバルト三国にソ連軍基地やコンビナートで働いていたロシア人・その子孫の残留問題は各国内での大きな不安要素である。EU・NATOに加盟した今でもロシアとの関係は極めてデリケートだ。

一方では、経済進出著しい中国がヨーロッパでの発言力強化のために、「バルト三国」に対し経済協力を始めとして影響力を着々と強めている模様だ。



筆者が2011年8月に首都リガを訪れた際、たまたま、ラトビア軍の記念式典が市内教会で開催されており、各部隊代表が市内を行進していった。式典には米英仏、そして露の駐在武官に加え、人民解放軍の将校の姿もそこにあった。日本国内の混乱をよそに彼の国は着々と各国でのプレゼンスを目に見える形で増やしていると実感した。

      外交は文化・経済だけでない。平時における情報収集・信頼関係醸造のためにも、防衛駐在官(駐在武官)の充実が必要と考える。

勿論、戦前の駐独大使(陸軍出身)の様に相手国のプロパガンダを盲信し、国家を窮地に陥れた失敗は繰り返してはならない。いくら頭が良くても語学が出来ても何が出来ても、批判的に物事を見られないとすれば、情報の世界では弊害あるのみである。

常日頃、対立したニュースソースの中から希望的観測を排し現実を直視する事はとても難しい。日本的組織はこの作業が苦手である。なぜなら言霊信仰の国では悲観論は好まれないからだ。

この致命的弱点を中露米英仏は良く知っている。政府・議会・企業とも情報運用する際には肝に銘じて行かねばならないのだが、その覚悟は有るのだろうか。

式典から帰った筆者は苦めのビールを飲み干しながらこんな事を考えていた。

 

苦い話ついでではあるが、ラトビアにも様々なビールがあるので訪問した際はぜひ飲んで欲しい。

ロンドンでもハイドパークの傍に「ラトビアクラブ」があり、週末は安くビールを飲めるクラブが開催されている。アジア人は殆ど見かけなかったが隠れたスポットであることには違いないだろう。


「お気に召したら」クリックお願いします
にほんブログ村 イギリス情報
(2012/12/20記)

2012年12月13日木曜日

霧の中のスターリン(orカーネルサンダース)

      今回はBirkbeckにおける実際の授業(モジュール)について書いてみる。
      Birkbeckは、元々の目的が社会人教育であったため夜間授業が多い。よって、コースにもよるが年齢層が高めだ。そういった意味で落ち着いて勉強に打ち込めるともいえる。勿論、大学を卒業後すぐに進学した生徒もいれば、生涯学習の一環で来ていると思われる社会人もいる。心理学を勉強した後、スターリンやヒトラーに関心を持って歴史のMA(修士)に来た人もいる。年齢・性別にバラエティがあるのは双方にとって刺激的だ。
今回の「スターリン時代のソビエトの市民生活」に関するモジュール(約2ヶ月間)は80%以上がネイティブ。有色人種はインド系のおじさんとトルコ人のお姉さんと筆者だけだった(女性は後半に消えてしまった)。
       冷戦下の東側諸国・ソ連に関する歴史研究は、冷戦終結とともに共産主義時代の内部資料入手が容易になり、個人の意思表明も可能になった。研究対象として充実してきた領域の様だ。
       入学前(8月末時点)には既に、全回分のトピックタイトルと検討課題、毎回のセットリーディング(A4で80ページ分位:読了前提として授業進行)、さらに推薦リスト(数冊の本ないし論文雑誌の記事)が提示されていた。2時間の授業は、まず教授によるセットリーディング関連のトピックの要点・論点整理、後半に推薦リスト等に基づいた学生のプレゼン、その後、質疑応答と言う構成で進行した。
   白熱した議論(話すスピードが速くなるか、発言がやたらに長くなる)には中々加われないので、最初に質問することやプレゼンをこなす事で、授業への関与を示す戦術を取った。
    筆者は「スターリン統治下のソ連で反乱・ストライキ・蜂起」をプレゼンテーマとして取り上げた(9月時点では「本当に史実か」と疑っていたが)。1932年にモスクワから230㎞位の都市で、7千人以上が参加した1週間にわたる工場ストライキ・隣の町(20km)までの数千人規模の抗議行進があり、しかも誰一人処刑されず最大3年の入牢・国内流刑で済んだという事実*をベースに行ったのだがその後の大粛清等に比して何とも牧歌的である。
読了した論文では(1)ロシア革命に貢献した労働者が多く住む工業都市で発生した (2)党に所属していない労働者が自主的に組織した(3)行動の背景にあるのは党が行った政策への反発であって反ソビエト(=反革命)では無いという3点を強調していた(論文の著者が鎮圧しづらい点を仄めかしているとも解釈できる)。
プレゼンを終えるに当たり、スターリンがまだ権力を掌握しきっていなかった時期であったからこそ抗議活動が出来た事と、工場・地域にある党支部側の初動の遅さに謎が残る2点を指摘した。 幸い(?)にして答えに窮するような質問も無くプレゼンを乗り切ったが、優先順位や論点を簡潔に纏める良い練習になったと感じた。
   タフで厄介な、そして卑怯な手を厭わない指導者が第二次世界大戦においてソビエトを勝利に導いた事は疑いない(その後の停滞も同じ理由だが)とこの授業を通じて認識を新たにした。 ロシアの歴史を垣間見るにつけ「力こそ正義」「勝てば官軍」「結果オーライ」というメンタリティを大衆が共有しており、西欧やアメリカ、日本が共有している民主主義的な価値観とは明らかな違いを感じる。
   ご存じの向きもあると思うが、スターリン自体はロシア人でなくグルジア人ではあるが、ソビエトでは共産主義を信奉する事を優先していたから、日本人からするとやや違和感のある現象が起こったともいえる。この男の事を知っておくのは、ロシアという隣人を持つ日本としても有益な事であろう。今でも、モスクワの博物館では「ナポレオンとヒトラー」という独裁者と人民の闘い、といった路線で展示されている。さすがにスターリンの銅像は余り置かれていないが・・・
   








   いずれにせよ、学術的には、霧の中のスターリン時代は徐々に暴かれていくだろう。依然として、彼の意思決定には不可解な点が多いのだが・・・


   スターリンの銅像といえば、9月に朝霧のブラチスラバ(スロバキア)でみたのを思い出す。レストランの入り口の目印として、いわばカーネルサンダースのような扱いを受けていた。
国家指導者から「客寄せパンダ」への転向に何か物悲しいものを感じる。
 
 最近、濃霧でヒースロー空港発着便に遅延が出たとBBCで言っておりましたが、ラッキーな事に筆者の部屋には、朝日がさんさんと降り注ぎます。まさしく「朝日のあたる家」・・♪

「お気に召したら」クリックお願いします
にほんブログ村 イギリス情報
 
(2012/12/12記)
* Jeffrey Rossman, ‘The Teikovo Cotton Workers’ Strike of Aril 1932: Class, Gender and Identity Politics in Stalin’s Russia’, Russian Review 56:1 (Jan. 1997), 44-69