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2013年10月14日月曜日

再利用しにくい日本語の論文PDFとプレージャリズム(盗用)の件

世界中の多くの学術論文がPDF化され、各種データベースにアップロードされている

例えば海外であればJSTOR, 日本のものであればCiNiiといったところだ

英語圏と日本語圏の論文データベースサイトの考え方に違いがあるようだ

英語圏

 ・原則有償(自大学のサイト経由で無償になる事が多い=実際は、授業料に包含)
 ・ダウンロードしたPDFからのコピペは可能

日本語圏

 ・無償だが大学・学部単位での開示が多いので、一元検索でチェックできないケースがある
 ・PDFファイルには「保護」がかかっており、コピペはおろかアンダーラインすら引けない
   
  (ちなみに、保護されたPDFを活用する方法はこちら)

 英語プラットフォーム環境の使用人数の差はあるとしても、引用の利便性(再利用度)では英語圏のデータベースが優位に立つだろう。

 ルールに従った引用をしようとしても、論文の該当部分を目視しながら、再インプットするのは相当、やる気をなくす作業だ(苦笑)。 

 筆者はオリジナル文章とパラフレーズを行ったリストを作っていたが・・・ルールは守るので作業効率は上げさせてほしいものだ。
 


 なぜ、日本語論文のPDF開示時に「保護」を厳しくしているのだろうか? 大学生のコピペ横行や「プレイジャリズム(剽窃) plagiarism」への理解が根付いていない事に起因するのか。

 このプレイジャリズム(一種の盗用)への指導は、イギリスの大学での各種ガイダンスではしつこい位に説明がある。よほど、蔓延しているのか、誘惑が強いのか??

   こんなページまでありました・・・



 Birkbeckでは、授業課題の論文を紙ベース提出のほか、データベース上(Moodle)にアップロードする必要があった。この中に剽窃解析を行うソフトウェアでのチェック機能が組み込まれている。 

 同じ寮にいた違うカレッジのインド人が、そのチェックに引っかかり、ある単位を落としていた。どうやら、引用元を記載しない部分が論文のあちこちに見受けられた、ということだったようだ。 

  

 ビジネスの世界でも、剽窃はいろいろある。

 前職で経験したが、筆者が作成した文章の署名だけ消したものを転送している同僚が居た。「あたかも自分の成果・オリジナル」と見せかけたメールやマニュアルの類が自分のところに再転送されてくると、実に残念な気持ちになるものであった。

 「オリジナルを尊重しない」「コピーはタダ」という知的財産への教育が不徹底だからかもしれない。引用元を尊重しない傾向は、中国(新幹線のケースなどもそうだが)や韓国でも似たようなことが起こっているので、日本だけの問題ではないのかもしれない。

 
 結局、署名が無くコピーされただけものは、コピーされることによって市場から駆逐されていくのではあるが、そのプロセスで「オリジナル」も 潰えてしまうのでたまったものではない。

 引用した旨の表示や必要な対価を払った上でさらなる付加価値を生む事が 、アカデミアであれビジネスであれ、王道と考えるがどうだろうか。


(2013/10/14記)

2013年5月26日日曜日

飛んでイスタンブール

チェコ訪問記を今回は休み、
足許の授業に関連し「トルコ」について取り上げたい。

「飛んでイスタンブール(音に注意)」というタイトルが懐かしい方もおられるだろうが、筆者の頭の中はトルコの事ばかりになっている。

 現在、「オスマン帝国から世俗国家(政教分離)となった現在のトルコになっていく経緯を学ぶ」モジュール(授業)を取っており、朝から晩までトルコ関係の資料を読んでいる。

 
 一般に、ロンドン大学の各カレッジでの修士課程では、ビジネスや商業法をはじめ、他の多くのコースは4月で授業終了。それ以降5月下旬までが試験シーズン、8月末までに卒論を仕上げるようになっているが、筆者のコースは6月末まで授業があり、他の学生たちと若干タイムラグがある。

 
   一人ひとりが異なるバックグラウンドで、異なるモジュールを取っているから、基本的には自己管理が非常に重要だ。 筆者の大学時代を振り返るにつけ、何と安直な日々を送ったのかと、今更ながら反省している。

 英語だけでなく、日本語の文献も並行して読了しているが、新井正美氏の「オスマントルコはなぜ崩壊したのか」がめっぽう面白かった。

 トルコは日本が鎖国している間も戦争に明け暮れ、敗北の度に領土を失っていき、最後に「国民国家」を形成することとなった。 19世紀に入り、タンジマートと呼ばれる上からの改革が進められ、部分的に西洋の法体系を導入したりもした。 しかし後継の皇帝が憲法を停止したりと反動も大きかったために、オスマン帝国領内は益々混乱していった。 その中での社会運動などを判り易く教示してくれた一冊である。

 トルコだけでなく周辺民族についての言及も興味深い。例えば、トルコ系タタール人について、「十八世紀後半のエカチェリーナ二世時代に寛容政策がとられた事を契機に、経済的発展を始めていた。(中略)タタール人のネットワークが中央アジア一帯にはりめぐらされることになった。彼らはやがて工業部門にも進出し、十九世紀にはカザン、オレンブルグなどでタタール人ブルジョアが繁栄していたのである(pp.216-217)」とあった。

 「タタールのくびき」と言う言葉は聞いた事があるし、第二次大戦中に発生したスターリンによる「クリミア・タタール人追放」も知っていたが、19世紀の事は知らなかった。スターリンが弾圧したのも、「独ソ戦でドイツ側に内通した」という嫌疑をかけて追放したのだが、潜在的に資本主義社会でのスキルある人々を抹殺したという文脈で考えることもできるかもしれないと、膝を打った。その文脈で考えると、バルト三国指導者層のシベリア追放も同じ理由であろう。

 今までの知識と、新たな知識との間に因果関係がありそうな時が結構楽しい瞬間である。 

 同時に日本の隣国ロシアは政治気質として明らかに西側と異なる歴史観・価値観を持っている事をロシアとトルコの関係史からもうかがい知ることが出来る。

 ロシアという国を考える際には、日本とロシアの二国間関係のみならず、他のロシアの隣国(トルコ、バルト三国、ポーランド、歴史的なドイツ等)との関係も理解しておくと、より多面的かつ冷静な判断を行う事が出来るかもしれない。

ちなみに、チェコのPlzenで食した、タルタルステーキも、タタール人由来らしい。

ユッケと同様に、生肉なので、鮮度に自信がある店だけが提供してくれる一品である。 現在のトルコで食せるかどうかは判らないが・・・
 

 そのトルコに住んでいる英語学校の先生だった人が示唆してくれたのだが、イスタンブールで自転車乗り向けに、こんな素敵なイベントがあったとはしらなかった。Istanbul Velonotte


どうやらこの、Velonetteは世界的にイベントがあり、ロンドンでも6月に有るらしい。

とにもかくにも、自転車操業にならぬよう、勉強の方もうまく運転していきたいものだ・・・



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(2013年5月26日記)

2013年3月13日水曜日

戦中・戦後秘史(ダッハウ、シュタージとアメリカ陸軍の日系人部隊)

 今季のゼミは、ヒトラーの政権奪取期についてのトピックだ。 スターリン、ヒトラーと、イギリス人は「独裁者たち」の研究に余念がない。   クラスの4割を占める女性がゼミをリードしている感がある。 ドイツより中立的に研究できるからなのか、ドイツ系の名前を持つ教授がこのゼミの担当だ。 その中で注目した事実は、「ミュンヘン北西にあるダッハウ(Dachau)に強制収容所が出来たのは1933年である」ということだ。 

 昔、訪問したアウシュビッツと同様に第二次大戦では多くの強制収容所が有ったのは知っていたが、「ナチスの政権奪取と同じタイミングで収容所が出来て政治犯を拘留しはじめた」事実を知ってショックを受けた。

 そこで蓄積したノウハウを各地に横展開しており、ドイツが実践的な事象に対する体系化において他の大陸の諸民族を圧倒している事実を図らずも証明していると実感。 

 ダッハウにはのちにバイエルン王家も収容されたが、ヒトラーあるいは国家社会主義者たちは伝統的な王家や貴族に対して不信感ないし嫉妬を感じていたのだろう。その点においてナチスドイツとソビエトの類似性を指摘することが出来る。どちらも暴力革命・既存の体制打破を肯定していたのだ。

 ナチスの行った暴力行為の大部分について詳細な記録を彼らは残している。彼らは「法にのっとり」行動したのだから、記録に残すのは当然という対応だ。 実行者にとっては「法」に基づいた行動であり、体制が長く続く事を前提においた何よりの証拠である。 

    戦後立法を過去に遡及して適用はできず、時効が成立していれば罪には問われない。が、戦争の記憶を保存するといった、過去の事実を記録・記憶させ続ける努力は凄まじいものがある。

 記録を詳細に行う伝統は東ドイツに受け継がれた。 シュタージ(Stasi 秘密警察)による相互監視の結果は事細かに記録されていた。 これも体制が永遠に続くことを前提とした行政対応の結果である。 




 ベルリンの壁崩壊時に失われそうになったものもあるようだが復元・現在でもシュタージ・アーカイブスにて集中保管されており閲覧できる事が法制化されている。 シュタージについて興味深い映画は「善き人のためのソナタ」がお薦め。

 アーカイブスでは知りたければ、肉親・親戚・友人の誰が自分を監視していた事実を知ることが出来る訳だ。 精神的ショックを受けることを覚悟しても自分の記録を見に行く人が後を絶たない。 「過去はどうであったのかどうしても知りたい」という心理が共通しており現在でもひと月当たり1万人が閲覧するという。 ナチスの犯罪やシュタージの問題等、ドイツの過去への対峙は終わらない。

ベルリン総統地下壕跡付近の案内図
(遺構は聖地にならぬよう埋められた。偶然、ヒトラー自決の日に当地を訪問したが至って平穏であった)


 さて、そのナチスドイツと戦った日系人部隊の事を御存じであろうか? 

 往年のNHK大河ドラマ「山河燃ゆ」(※)のなかで堤大二郎演ずる青年が収容所の中から出征し、激しい戦闘の末聴覚を失って復員してきたのが日系二世で編成された「第442連隊戦闘団」という部隊だ。
 
 
 ハワイ選出の故ダニエル・イノウエ上院議員もこの部隊の生き残りだった。 米軍の中で最も損害を出し勇猛果敢に戦った部隊である。 イタリアのモンテ・カッシーノでの戦い、ボージュの森でのテキサス大隊救出のエピソード等は知っていた。「442連隊戦闘団―進め!日系二世部隊」が詳しい(アマゾンで調べたらとんでもない値段がついていた)。

  だがこのダッハウ強制収容所の解放に携わったことまでは知らなかった。ダッハウと杉原千畝氏、日系人部隊にであったユダヤ人もいたので、日本とユダヤは思わぬ所でリンクしているということだ。

山河燃ゆ(映像):https://www.youtube.com/playlist?list=PL4B3FFB28F09A4794
 442部隊について(英語):http://www.the442.org/

 極力複数のソースに当たり、客観性を担保しつつながら、戦中・戦後秘史については折に触れて調べていきたい。日本の場合は、義務教育はおろか、高等教育でもこの領域はないがしろにされているからだ。 この領域の知識取得や自らの考えまとめる事をおろそかにしていると他国(他者)に一方的に敗北する可能性がある。 それぞれ個人の国家観は違えども、認識はしておく必要は有るだろう。 どの国家に依拠するものであれ、自国・他国双方の尊重無しにはビジネスも交流も長期的には成立しえないだろう。


 ロンドンのマーブルアーチにある「戦争動物慰霊碑」:イギリスのどこの街に行っても、戦争犠牲者の慰霊碑は街の中心地や一等地におかれている。 ここでは、馬も英雄とされており、献花が絶えない(XX号と名前があるものも居た)。 先般、ファーストフード店での馬肉混入スキャンダルで大騒ぎになったが、イギリスやアイルランドでは馬肉を食すのは一種のタブーであるらしい。 

 「英雄」の同輩を食す、という訳にはいかないのであろう。 馬がダメなら、鹿や牛、果ては鯨はどうなのか? 馬鹿な事言っちゃまずいか・・・(笑)

(2013/03/13記)

※「山河燃ゆ」は山崎豊子「二つの祖国」が原作の昭和59年(1984年)の大河ドラマ。三船敏郎、松本幸四郎、西田敏行、沢田研二、柴田恭平、渡辺謙、大原麗子、島田陽子、多岐川裕美、柏原よしえ等々の当代の人気(或いは後に大成する)、俳優・女優を総動員した感のある重厚な作品だった。 戦争に巻き込まれ敵味方になる兄弟をはじめ、戦争に翻弄される家族、友情、世代間の葛藤等を描いた。 所謂「重い」テーマを扱っていたにもかかわらず、視聴率は21%あった。

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2012年12月13日木曜日

霧の中のスターリン(orカーネルサンダース)

      今回はBirkbeckにおける実際の授業(モジュール)について書いてみる。
      Birkbeckは、元々の目的が社会人教育であったため夜間授業が多い。よって、コースにもよるが年齢層が高めだ。そういった意味で落ち着いて勉強に打ち込めるともいえる。勿論、大学を卒業後すぐに進学した生徒もいれば、生涯学習の一環で来ていると思われる社会人もいる。心理学を勉強した後、スターリンやヒトラーに関心を持って歴史のMA(修士)に来た人もいる。年齢・性別にバラエティがあるのは双方にとって刺激的だ。
今回の「スターリン時代のソビエトの市民生活」に関するモジュール(約2ヶ月間)は80%以上がネイティブ。有色人種はインド系のおじさんとトルコ人のお姉さんと筆者だけだった(女性は後半に消えてしまった)。
       冷戦下の東側諸国・ソ連に関する歴史研究は、冷戦終結とともに共産主義時代の内部資料入手が容易になり、個人の意思表明も可能になった。研究対象として充実してきた領域の様だ。
       入学前(8月末時点)には既に、全回分のトピックタイトルと検討課題、毎回のセットリーディング(A4で80ページ分位:読了前提として授業進行)、さらに推薦リスト(数冊の本ないし論文雑誌の記事)が提示されていた。2時間の授業は、まず教授によるセットリーディング関連のトピックの要点・論点整理、後半に推薦リスト等に基づいた学生のプレゼン、その後、質疑応答と言う構成で進行した。
   白熱した議論(話すスピードが速くなるか、発言がやたらに長くなる)には中々加われないので、最初に質問することやプレゼンをこなす事で、授業への関与を示す戦術を取った。
    筆者は「スターリン統治下のソ連で反乱・ストライキ・蜂起」をプレゼンテーマとして取り上げた(9月時点では「本当に史実か」と疑っていたが)。1932年にモスクワから230㎞位の都市で、7千人以上が参加した1週間にわたる工場ストライキ・隣の町(20km)までの数千人規模の抗議行進があり、しかも誰一人処刑されず最大3年の入牢・国内流刑で済んだという事実*をベースに行ったのだがその後の大粛清等に比して何とも牧歌的である。
読了した論文では(1)ロシア革命に貢献した労働者が多く住む工業都市で発生した (2)党に所属していない労働者が自主的に組織した(3)行動の背景にあるのは党が行った政策への反発であって反ソビエト(=反革命)では無いという3点を強調していた(論文の著者が鎮圧しづらい点を仄めかしているとも解釈できる)。
プレゼンを終えるに当たり、スターリンがまだ権力を掌握しきっていなかった時期であったからこそ抗議活動が出来た事と、工場・地域にある党支部側の初動の遅さに謎が残る2点を指摘した。 幸い(?)にして答えに窮するような質問も無くプレゼンを乗り切ったが、優先順位や論点を簡潔に纏める良い練習になったと感じた。
   タフで厄介な、そして卑怯な手を厭わない指導者が第二次世界大戦においてソビエトを勝利に導いた事は疑いない(その後の停滞も同じ理由だが)とこの授業を通じて認識を新たにした。 ロシアの歴史を垣間見るにつけ「力こそ正義」「勝てば官軍」「結果オーライ」というメンタリティを大衆が共有しており、西欧やアメリカ、日本が共有している民主主義的な価値観とは明らかな違いを感じる。
   ご存じの向きもあると思うが、スターリン自体はロシア人でなくグルジア人ではあるが、ソビエトでは共産主義を信奉する事を優先していたから、日本人からするとやや違和感のある現象が起こったともいえる。この男の事を知っておくのは、ロシアという隣人を持つ日本としても有益な事であろう。今でも、モスクワの博物館では「ナポレオンとヒトラー」という独裁者と人民の闘い、といった路線で展示されている。さすがにスターリンの銅像は余り置かれていないが・・・
   








   いずれにせよ、学術的には、霧の中のスターリン時代は徐々に暴かれていくだろう。依然として、彼の意思決定には不可解な点が多いのだが・・・


   スターリンの銅像といえば、9月に朝霧のブラチスラバ(スロバキア)でみたのを思い出す。レストランの入り口の目印として、いわばカーネルサンダースのような扱いを受けていた。
国家指導者から「客寄せパンダ」への転向に何か物悲しいものを感じる。
 
 最近、濃霧でヒースロー空港発着便に遅延が出たとBBCで言っておりましたが、ラッキーな事に筆者の部屋には、朝日がさんさんと降り注ぎます。まさしく「朝日のあたる家」・・♪

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(2012/12/12記)
* Jeffrey Rossman, ‘The Teikovo Cotton Workers’ Strike of Aril 1932: Class, Gender and Identity Politics in Stalin’s Russia’, Russian Review 56:1 (Jan. 1997), 44-69

2012年11月7日水曜日

授業(レクチャー&セミナー)の日英比較

 

「留学までの道のり」についてはネット上でも本でも情報があるのだが、実際の授業について、特に「歴史学をどう学ぶのか」という情報が少なかった。また、結論から言えば、日本語で学ぶ過程でも議論を重視し論文課題をこなしたうえで、「ディベート授業が主体の現地プレセッショナルかファウンデーションに通ってから現地の大学院に進学した方が良かった」のではないかというのが、今の率直な感想だ。これらの点は、予め学校選び等の際に突っ込んで確認したほうがよいかもしれない。

授業のシステムをイギリスと日本と比較して見ると以下の通り。

 この大学院では「歴史学をこの大学で学ぶ上でのフレームワーク」という必須科目が最初のレクチャーとセミナー(日本でいうゼミ)のセットで構成されている。
 教授一人ひとりの出身大学・専門分野・見解に相違はあるのであろうが、 この場で幾つかの大きな論点を提示・共有しようとするものだ。こうすれば、理解度の差はあれ、専門外の人間でも一通りのキーワード・概念は共有できる訳だ。 ひょっとすると、このアプローチは欧州各国の教育制度と学習プログラムのチューニング(調和)を図るプロジェクトと関連するのかもしれない。 

 日本での学部(経済学)時代に「縦串・横串」を指す体系紹介が提示されなかっただけに新鮮であった。当時は、理論経済学以外では相互の授業の連関は重視されていなかった。自分でストーリーを作りコーディネートする訓練は出来たが、一方で毎年同じ講義内容の退屈かつ一方的な授業があったことも事実だ。
 特にバブル期は「単位が取りやすい授業か否か (毎年同じテスト問題 or 出席重視)」が授業選択のトレンドで、論理力ではなく情報収集の訓練と化していた。天の邪鬼の筆者は、これが嫌で「論文テスト一発勝負」の授業を好んで取った。数学と語学と体育以外は、数冊関連書籍を一気に読破したうえでロジカルに作文すれば授業に出ずとも単位取得が出来た。その過程で自分なりの価値判断のヒントは得た訳で、過去問を覚えて直ぐ忘れるよりは良いだろう。さらにゼミや卒論は卒業の要件でなかったので、同じ学部でもこれらの選択如何により、全く異なる学生が量産されていた。 

 公務員や司法・会計士試験等に注力する場合には都合が良かったのだろうが、ゼミや論文が無いならば専門学校と何が異なるのかは、はなはだ疑問である。
 学生時代にゼミや論文に注力して本当に良かったと思っている。特に輪読形式でなく個人テーマ別でのゼミだった故に、プレゼンと議論主体で専門外の領域でも相手を論破する重要性を学んだ。個々人の感情とその思考を切り離し、存在を認め合う訓練にもなった。 何よりも、自分なりに知識の体系化を続けるきっかけを得た事は大きい。当時のゼミの指導教官(故 斎藤優教授)には感謝している。

 話がそれたので、イギリスの話に戻そう。

 レクチャーは階段教室で行われる。歴史を学ぶ上での共通の切り口をテーマ別(国家、革命、移民・・・)に、学部に所属する教授達が分担して教える(ここにセミナーを担当する各教授も皆出席)。その後、それぞれの専攻別(中世史、現代史、ジェンダー史・・・色々)に別れ、自分たちに関連する領域とテーマにあてはめ、セミナールームで議論を行うというスタイルになっている。
 セミナーでは、問題提起、質問や意見を述べ合い、議論を発展させる事が推奨されるが、意見収斂型の議論ではなく、ややもすると意見拡散型の傾向があり、企業に長く所属していた筆者は正直、戸惑っている。自分の立ち位置を上手く表明させることに主眼が置かれているようだ。「成果・意味・対案がなければ言う意味が無い」というロジックで思考していると、なかなかこれがやりにくい。 勿論、正解の出しようが無い(学説の論理的妥当性・状況適応という意味での多数派形成はありうるだろうが)。

 勿論、知識を披露する場ではなく、個々人の思想の披歴、抽象的な議論になっていくので、英語でやり取りするのが段々きつくなってくる。 「目標に至るための議論(経理や工業技術)」であれば、抽象論に走りすぎていても「理解するための具体例の提示」「効果的な結論」を促すように議論をコントロールできる面では楽なのだろうな、と思った。 

 これらの進行スタイルは、日本で想像していたスタイルとはやや異なるものであった。小生は、メソドロジーを共有する必要性は感じていたが、およそ専門外になるであろう分野(例:ジェンダー史)のアプローチまでは学ぶとは想像がつかなかった。どうやら「差別是正」という教育方針が各大学に課せられているらしく、学位を量産する以上は、これらを教育しない訳にもいかないのであろう。

 目下、悔しいのは、議論の中でネイティブが知的レベル的には大した事を言っていないのが判っても、英語でパンパンそれが出てこないもどかしさである。単なる英会話ではなく、英語で議論を戦わせるディベートの訓練を定期的に続けていないとこれはきつい。
 小生も正味3カ月ほど日本でディベート(週2時間)を含むプレセッショナル(週30時間)に通ったが到底足りない(新宿にあるB社のコース)がコスパが良かったのかどうか微妙。

 後を目指す諸兄諸姉に置かれては、留学しようと漠然とでも考えているならば、まずは日本語でも議論をベースとした授業やゼミ、論文課題をこなしておくことを強く勧める。企業でもその経験が議論をリードする上で役立つ。
 その上で、ディベート授業が主体の現地プレセッショナルかファウンデーションに通ってみるのをお勧めする(残念だが小生も現時点では具体的情報を持ち得ていないが、一般の語学学校にはディベートを行うチャンスが無いので注意)。
 英語でのディベートを日本国内で日本人同士でやる場合、議論が受身がちに陥るリスク、議論を続けるタフさ加減に左右されてしまうリスクをどうヘッジするのかが課題だろう (無論、英語レベル差も大きいだろうが)

 長々と書いたが、後に続く皆さんの成功を祈る。
 写真は本文とは全く関係ないがエコな感じの着ぐるみミニカーを発見。
何気ないジョークを街中で発見できるのも、ヨーロッパの魅力なのかもしれない。日本でやると道交法違反になっちゃうのかな?

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(2012/11/06記)

2012年10月14日日曜日

初授業とワインパーティ


  初の授業を階段式教室(Theatre)で受けた。UCLの薬学部の建物の中にあり、シンプルな作りだが恐ろしく急な階段、机に寄付した人のネームプレート、長机が終わる両方の壁際に電源プラグがあるのが特徴的だった。ネームプレートは公園のベンチなどでもよく見られ、‘民活’なのだろうが、落書きを防止する効果もある様だ。 電源プラグはPCを使う時代に対応しているのだろう。日本の大学でも活用できそうなアイデアだがどうだろう。


 最初に、目の不自由な学生代表が登壇、この大学で学ぶメリットと他の生徒に対して協力を要請して始まった。ハンディキャップを全く意識させない堂々としたプレゼンテーションに皆が拍手で応えた。事故等で、ある日突然、視力を失うことがあるかもしれない故に、こういった多様性の確保は必要と思われる。


続いて、図書館の利用案内、各教授の紹介に続いて、当日のレクチャーが始まった。

 レクチャーは「歴史学とは何ぞや、21世紀におけるその役割とは?」というお題。とても早口で聞き取りにくいが、所々でジョークを交えながら進んでいった。「歴史を学んで何になる」という批判は日本でありがち(=年号暗記への批判だと思うが)だが、今世紀における役割というアプローチは新鮮だった。歴史研究は今までも役に立ってきたが、ソーシャルネットワーク等の台頭で個人個人が情報発信出来るという事自体が人類の歴史の中で画期的であり、どう位置付け・活用していくかといった問題提起もなされていた(様に聞こえた)。

 講義の後は、ワインパーティが本部教室の一角で行われた。皆、ほろ酔い加減での自己紹介が始まる。何気に来週からの授業ガイダンスをチューターのドクターがあちこちで話し始めた。なんとかキャッチアップして聞いている間に、他のクラスの人たちは、少しずつ気の合った仲間同士で夜の町に消えていった(か家路に急いだ)。
 
 最後まで残ったのは、サンフランシスコから来たロシア系のAちゃんと、ロンドン出身のN君と三人だったので、大学内のバーに向かい、もうひと飲みすることにした。Aちゃんは売春の歴史を研究するという。 確かにジェンダーに関する歴史の講座もあったが、果たして文献等は有るのだろうか。N君はナチ研究がしたいとの由。聞けば西部戦線に従軍した祖父の家の一室が第二次大戦関連の小部屋になっており、このインパクトが勉強のきっかけとか。酒の強い二人とも話が弾み、いつしか23時5分前、閉店前のドラが鳴り響き我々も帰途についたのであった。 


2012/10/14記

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