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2014年6月11日水曜日

ウクライナでの抑留日本兵(ハプスブルグの面影を求めて:番外編)



先般、舞鶴の舞鶴引揚記念館を訪問し、悲しく苦しい中にも、一筋の光明を見た元陸軍飛行兵の方による版画を見る機会が有った。

一度見てほしい。 

同盟国だったドイツやハンガリー兵、そして敵国であった筈のソ連の女性兵士への仄かな憧れ・・・

旧ソ連抑留画集

この方は東部ウクライナのスラビヤンスク(Sloviansk)で抑留経験を送っている。やはり抑留されたドイツ軍医に命を助けられたりもしている。

一人の人間として絶望の中でも生き残ってきた方だからこそ書ける姿なのかもしれない。

スラビャンスクの地図

スターリンによる大虐殺が起こったり、多くの人々がシベリアに行かねばならないのか筆者自身も想像が付きにくい位に、ロシアやウクライナの青い空は美しかった。

サンクトペテルスブルグ エルミタージュ美術館の前


Lvivの丘の上

そんなことを考えながら、旧ソ連圏を旅する事が多い

読者の近親者が下記の名簿に居られるかもしれないのでリストを掲げておく。
シベリア・モンゴル抑留時志望者名簿(厚生労働省Web)


先の大戦で祖国のために戦った全ての将兵、そして犠牲者に哀悼の意をささげつつ・・・


(2014/06/11記)



2014年5月16日金曜日

日本の植民地経営を考える(フランス軍退役将軍の強烈な一言)

 植民地の存在についての善悪を問うものでなく、

 自分の父が勤めていたフランス系企業にはフランス軍の退役将軍が役員として名を連ねていた。或る時、父の上司が、退役将軍に「フランスは良いなあ、いい所に植民地を持っていて。日本は戦争で負け植民地を失ってしまった」とつぶやいた。将軍は一言、「君たちの先祖がバカだったんだろう」

 勇敢に戦っても負けは負け。負けから教訓を得ねば、何時まで経っても

2014年5月12日月曜日

ノルマンディ上陸作戦博物館(ポーツマス)

ロンドンから海を求めると、ブライトンやポーツマスあたりが一泊二日で便利だろうか。

近現代史、ということになると、イギリスの博物館は充実している。

ノルマンディに行く場合でも、ポーツマスからフェリーが出ているようだが時間はかかる。そこで手っ取り早く、ノルマンディ上陸作戦を知ろうとした場合、D-Day museum がおすすめだ。

なお、ビジネスとノルマンディ上陸作戦の関連性に関しての、日経から出ている記事が面白い。

巨大組織にみる緻密すぎる計画と局所最適化の弊害












駅からは離れている

2013年8月21日水曜日

サウンドオブミュージック(リージェントパークの屋外ミュージカル)

ハイドパークで屋外ミュージカル「サウンドオブミュージック」を観劇。

天真爛漫なおてんば娘と厳格(そうに見える)貴族との恋愛・結婚という

意外性、子供たちののびやかな演技、少女と青年のほのかな恋愛・・・

1938年のナチスドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)、

という歴史的背景を絡めながら、大人も子供も楽しめるミュージカルや

映画であることはご案内の通りである。



子供の時、映画を見て「なんで内陸国のオーストリアなのに主役が海軍軍人なの?」

という素朴な疑問が、実は今の修士論文につながっている。

日没前の開演時はこんな感じ

アドリア海のリゾートで注目されている、クロアチアの海岸沿いは

第一次大戦が終わるまでは、オーストリア=ハンガリー二重帝国の領土だった。

クロアチアの港町プーラもゆかりの地


 現イタリアのトリエステを含め、幾つかの港は、二重帝国のものであり、

実在の人物である、主人公のトラップ男爵は、アドリア海の都市ザダルで生まれ育ち、

トリエステに移り住んだ後、潜水艦の艦長になった。

(ザダルの解説が有る『世界飛び地領土研究会』のサイトはお勧め)

第一次大戦後に領土を失い、彼ら一家もオーストリアに移り住んだ。 第一次大戦の

エースをナチスの海軍に引き込めば、国威高揚や戦力強化につながる、と

考え、徴募した、という背景があってこそ、このストーリーは生きてくる。

北イタリアの港町トリエステも、オーストリア=ハンガリーだった・・・


 家族で合唱団を作りヨーロッパ各地で好意的に受け取られたが、

友人の借金に起因する、一家破産が背景にあり、生活の為に一家で興行に出た、

という史実の側面もある。


 ハーケンクロイツが掲げられた併合後の「オストマルク」の劇場で

郷土愛に満ちた主人公が「エーデルワイス」を歌う事で、

ナチスに加担しないと言う決意を静かに知らしめる演出は優れたものであろう。

サルツブルグの劇場でのワンシーン(出典)



大戦中にアメリカに逃げ延びた事で、「反ナチ」という政治的な

思惑も有って、彼らの興行が受け入れられた素地も有ると思われるが、

故国オーストリアでは、複雑な受け止め方をされただろう。


 オーストリア併合に、多くのオーストリア人が賛同した事もまた事実であり、

元大統領で国連総長まで務めたワルトハイムのように、戦時中ナチに

積極的に加担した人々もいたこともあり、この時代について国内で議論するのは

一種のタブーでもあるようだ。

 
 華やかなハプスブルグ時代と、その後の苦い記憶がオーストリアの

側面でもある。





このミュージカルは軽妙な音楽とその背景にある歴史の描写、

バランスが取れている。 英語も判り易く、お勧め。

日没後は寒いので、羽織れる物やスカーフなどが有るといいだろう。

エンターテイメントをきっかけに、様々な歴史を知るきっかけになれば、

いいのではないか、と秋の気配を感じながら思う。

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(2013/08/20記)

2013年8月14日水曜日

留学準備 (8月15日はイギリスにとって 対日戦勝記念日)

本日8月15日は日本でいう「終戦記念日」、

イギリスでは「対日戦勝記念日」。




日本敗戦を降伏文書調印日としてアメリカ等では「9月2日」をVJ-dayと

しているケースもある。

30年ほど前までは、これらの日に、日本人が外出しない様

自粛していたと聞いたことが有る。

最近でもこういったアナウンスがあったらしい。


少なくとも、交戦国の当事者が存命である事には

留意する必要が有る。


先の大戦で死傷した全ての将兵・市民に黙祷を捧げながら、

日本の大学まででは余り教育されない

イギリスと日本の知られざる関係も含めてトピックを幾つか取り上げたい。


<日英交流が始まって400年>

1613 年の夏、東インド会社のクローヴ(Clove)号が長崎、平戸に

来訪した事
から数えている。この船はイギリス国王からの親書を


携えていた事により、1600年に三浦按針がオランダ船に

乗ってきた以降の年号となっている。

これを記念したサイトは日英版あり(こちら)


<日英同盟>

 1902年に締結した軍事同盟。狙いは対ロシアけん制。

 第一次世界大戦では、チンタオのドイツ拠点の攻撃、地中海への

旧帝国海軍の艦艇派遣につながった。結果として、太平洋の旧ドイツ植民地を

委任統治する事になった。パラオ、サイパン、トラック諸島に

日本が展開した背景、今も「観光に行きやすい」という

結果をもたらしている。

 この事でアメリカの太平洋戦略と真っ向から衝突。すでに

大正時代からアメリカは日本との軍事衝突を予期して準備を開始していた。


 1923年、アメリカの思惑によりワシントン会議による

日本・英国・米国・フランスとの4ヵ国条約締結の結果、

日英同盟失効に至る。

結果として、第二次大戦後、日英両国とも太平洋での

権益を大きく失った


 ※伝統的にドイツは戦略的・実利的には中国重視する傾向が有る。

ナチスドイツとの同盟直前まで、国民党政権に軍事顧問団を

送っていた事に留意。


<第二次大戦 太平洋における戦い 1941~1945>

 日本との関係が順風満帆ではなかった。第二次大戦では敵として

戦闘を行った。日本によるシンガポール陥落を契機として、イギリスの

極東における覇権は地に落ち、「パックスアメリカーナ」にバトンタッチする

経緯となった。特に非白人により、巨大戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を

撃沈された英国民は大きなショックを受けている。



<アーロン収容所 ~1947>

 イギリス階級社会の断層を日本人インテリが捕虜となった

一平卒の視点で描く。特に階級社会に関しての記述は今の日本人は

萎縮して書かない分だけ貴重だ。

 著者は戦後、京大教授となった会田雄二氏。 クールな視点と

何気ないユーモアを感じる事が出来るかもしれない。

 突飛だが、この本と、軽妙な日常を記したブログ「イギリス毒舌日記」に

書かれたイギリス人やオーストラリア人が見事に符合するので、

どちらも一読を勧めたい。一方ではこの本を批判した批評もあるので、

公平を期して紹介する。

 <文庫版>

  <新書版>



<1971年昭和天皇ヨーロッパ訪問>

「1971年の昭和天皇のヨーロッパ訪問の際には、天皇は、「捕虜に強制労働をさせて、泰緬鉄道の建設を行なった政府の同じ天皇」(『ガーディアン』1971年10月8日付)と非難されました。」

「また、エリザベス女王の夫君フィリップ殿下の叔父で、はげしい対日戦線がくり広げられたビルマで東南アジア連合軍最高司令官をつとめ、1947年に伯爵に叙されたマウントバッテンが、天皇との面会を取り消して英国の大衆の喝采を浴び、昭和天皇が英国で植樹した木を何者かが引き抜くという事件も起きました。」

「昭和天皇の重体報道・崩御の際にも、とくに英国では大衆紙を中心に辛らつな批判が繰り広げられました。1995年の「対日戦勝50周年」――日本代表が英国政府主催の平和と和解の式典に招待されることはありませんでした。」

というくだりは、チェックしておいてよいだろう。

出典:http://blogos.com/article/68027/?axis=&p=2

ちなみに、オランダでは、より組織的にこのような反日デモが今でも組織されている。

<未来志向の日英同盟>


現代に、新たな「日英同盟」の在り方を研究しようと言う研究機関が

創設された。RUSI Japan。


この秋にアンドルー王子が来日、「日英両国の防衛・外交の当局者や防衛産業関係者のほか、安保問題の専門家らが出席。東京で2日間にわたり、日英安保の枠組みのあり方や、防衛装備品の共同開発、サイバー・セキュリティー、英国の情報活動などについて意見交換する」とのことである。
 (出典:http://sankei.jp.msn.com/world/news/130424/erp13042413360004-n1.htm)


<未来>

 大規模な総力戦を引き起こさないためのあらゆる努力は必要。

チェンバレンのような融和外交の失敗や、第二次大戦における

日本の情報軽視による敗北。その教訓を忘れてはならない。

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(2013年08年14日 ポツダム宣言受諾通告の日(終戦記念日の前日)に記す)


2013年8月9日金曜日

留学準備(尖閣・竹島・原発・・・国際関係の議論に直面したらどうする?? 準備まとめ編)

ロンドン日本大使館


一般に政治・宗教の話はタブーとされているが、

大学院に行く以上は、TPOを踏まえた上で、冷静な議論を行える事を

前提として、国際関係の専攻以外でも、こういった話も話題に入ってくる。

特に即答しにくい話がトピックに出てくれば、人間関係において

信頼されている可能性を確認する絶好のチャンスである。

自国で原発事故等、大事件が起これば否が応でも政治のトピックにはなるだろう。

 自国の歴史、懸案事項等に関しては、専攻がどうあれ、

英語で説明できる大学院生の方が圧倒的だ。 持論を説明できねば

存在を無視されるからだ。


勿論、避けても構わないが、これが出来ないと

「大人」としては扱ってくれない可能性があるので注意が必要。

ただでさえ、アジア系は若く見られたり、軽んじられる傾向が有る。



ベルリン日本大使館

 
 タブーの多い国家では、懸案に関しての「教育」は

統一した国策に沿って行われている。


 一方で、日本ではほぼタブーが無いが、自民党も民主党も正面から

国論を統一する気が無いから、公立学校では教えようがない。

 従って、自分で勉強するしかない。少なくとも、大学院に行こうとする

資金と時間とチャンスが有るのであれば、政府や教師に頼ることなく

近代史に対する見解はどうあれ、自らの意思で実施する事は可能であろう。


 準備しておかないと、論破され悔しい思いをする可能性すらある。

貴君、貴女は、ヘラヘラ笑って誤魔化すのがベストか?
 

 政治的自由を望む人であれば、語学のレベルが多少低くとも、

きちんとした知見を持っているのであれば、相手も話を聞いてくる。

 そして重要な事は見解が違う場合に「感情と議論を分ける」ことである。

この訓練は日本社会ではとても難しいが重要なスキルである。


 いずれにせよ、特に自国(自分)を語れずに、他国(他人)の事だけを

勉強しているのはとても奇異に思われる。


そういった日本人留学生もいるようだが、誠に残念。

勿論、彼ら彼女達をどうこうするまえに、まず自分自身を磨くことが重要。

留学前に準備できる事を確認しておこう(少なくとも日本語では・・)。

大学院に入った後だと思ったように時間が取れない場合もあるからだ。

<やっておくべきこと>

1.歴史的経緯・公式見解、相手国の主張を日本語では理解する。

2.自分の見解を考えておくこと。

3.シンプルな表現でいいので、必要な英語表現を覚える。

  専門家ではないから、まず自分の言葉で正しく伝えられる事が重要。


  他国の視点を英語で見ておく。見出しの表現は覚えておく

5.世界地図を一冊手許に置き、

  ニュースや会話で出た地名を片っ端からチェック。

  無論、Googleマップでもよいが、周辺の地名を合わせて記憶するには
  地図の方が良い場合もある。


また、外交・軍事に関わる事項に関して、

英語表現の手助けになると思われる公式見解ページをまとめてみた。

中国語等もページによってはあるので、合わせて参考にされたい。


<外務省>

北方領土、南樺太


尖閣列島


竹島

従軍慰安婦関係


経済連携協定(EPA)/自由貿易協定(FTA)

TPP関連(英文が無いものもあり)

知的財産権




<自衛隊>
日本の防衛政策

<日・米・英 軍隊階級表>
http://dictionary.goo.ne.jp/je/hyo1.html

<原子力>
日本原子力規制委員会

IAEA (International Atomic Energy Agency)

IAEA and Japan Host Fukushima Ministerial Conference on Nuclear Safety (Dec 2012) 



<国旗・国歌>

個人の信条はどうあれ、

国旗・国歌を粗末に扱うだけで、相手国(自国)を

侮辱したことと見なされるので注意が必要である。


・各国の国歌が斉唱されるときは起立。

・各国の国旗掲揚時には、起立脱帽・直立不動で国旗に注目

(強制されるものでなく、敬意を払うということ)

・中には日章旗や相手国の国旗を愚弄・焼き討ちする国家・民衆もあるが、

 第三国はその輩を「野蛮・馬鹿」と軽蔑しているのが常である。

 真似してはいけない。

「毅然とその野蛮さを指摘続けるしかない、感情的になったら負けである」


・ちなみに、日本では刑法92条で「外国国章損壊罪」が規定されている。


・仕掛けられないよう(ナメられないよう)に能力を示すことが重要。

 本当に言論戦をしかけるのであれば、周到な準備が重要。

・半島の2国は感情論レベルだが、大陸の政権は日本を良く研究し、長期的

視野に立ち言論戦を展開している(無論、国内の矛盾を反らす意味もあるが

その先を考えているので舐めてはならない)。

いずれにせよ、有効な反撃が出来る様にしておくことが重要である。

 また、個人と国家を分けて考える事も重要だ。どこの国にも、まともな人も

居れば、扇動されやすい人のどちらも居る。

<リガでの発見>

ラトビアの戦争博物館にある日章旗の寄書き

 満州に居た旧日本兵はシベリア抑留、ソ連に併合されたラトビア人エリート層は、
やはりシベリアの労働収容所に送り込まれていた。

 第二次大戦後にシベリアで出会った彼らはお互いの境遇を偲んだ。

 日章旗には武運を祈って寄せ書きが書かれており、
日本兵がラトビア人に手渡したものと思われる。

 ソ連併合前、バルト三国は対ソ連という意味で日本と利害が一致、
ソ連・ドイツ情報を入手していた。
 
 かの杉原千畝も、その文脈でリトアニアに赴任していたのだった。

 彼の国にはそういった歴史も秘められている。



(2013年8月08日 ソ連対日参戦の日に記す)

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2013年7月26日金曜日

歴史は繰り返す(ギリシャ編)

 倫敦はパディントンの駅前に旨いギリシャ料理の店が有る(通りの名前もLondon street!)。 

論文作成中、ちょっと気分転換に食べに出かけた。

 疲れた時ややる気が無くなった時は、各国料理を食べに行くのに限る。

ギリシャ料理とはいうものの、他国のメニューも何気にある事が多いので

心配もいらない。 

 旅行先でもギリシャ料理の店に寄る事がある。安くて旨い事が多い。

以前に訪問したドイツのザクセン州ツヴィッカウの旧市街にも旨いギリシャ料理屋が有った。

(Zwickau市役所HPより: Chemnitzの左方向にある)


今回は、印象に残っているこの店の事を書いてみたい。

ウェイターが愛想が良く、気前も良かったので印象的だった。

ギリシャのアルファベットで書かれたレストラン看板
 ダンスしている人たちが、ゆるーい



ツヴィッカウのトラム駅前にギリシャレストランが有る

実は普通の気動車がトラムに乗り入れてくるが、なんと国境を越えてチェコのカルロビバリまで走っている!「三線軌条」もありで鉄道ファンなら楽しい場所の筈。

食前に供された謎の酒、結構うまい


ビフテキ・ツヴィッカウ(?)風

 
ギリシャの美人画が描かれた室内


このツヴィッカウの店では、食前酒や食後酒が振る舞われた。 

 お勘定には独立した請求項目が無かったので、

其々のメニューが高めに設定されているのか、

或いは単にドンブリ勘定で経営しているのかは判らない。


 冒頭のパディントンの店は、頼みもしないのにフルーツ盛り合わせの

デザートが出てきたが、ウェイターに聞くと、「サービスです」との答え。 

テーブルチャージもないので、不思議に思った

有難い様な、不思議な経験だった。


先般訪れた、同じドイツのバイロイト(ワーグナー関係で有名な町)でも

町はずれにあるホテル兼ギリシャレストランンの昼定食が4ユーロ以下だった。

このあたりでは他の料理店でここまで安い例はあまりないだろう。

原価構成等はいったいどうなっているのだろうか。疑問が膨らむ。


 筆者が持っている、ギリシャのステレオタイプなイメージは、

古代建築、オリーブ、出稼ぎ、安くて旨いレストラン、ヨーグルトといったものだ。 
 
 ギリシャの人々には商才はあるのだろうが、組織化・工業化に成功した印象は薄い。


 何といっても2009年に発覚した、

過去の中道政権下による国家単位の粉飾の印象が強すぎる。

実質的な国家破たんに等しい状況は続いている。



 今回、オスマントルコ後の関係諸国の近代化について論文を書いている中で、

19世紀に、オスマン帝国から独立後のギリシャが債務危機に陥っていた事を知る。

歴史は繰り返したのだ。


 第二次大戦後も、共産政権と国王派の内戦が続いたり、

軍事クーデターが起こったりと冷戦下の西ヨーロッパの中でも

不安定な国家の一つであり続けた。



 ちなみにイギリスのエリザベス女王の夫君であるフィリップ (エディンバラ公)は

ギリシャ王家出身だが、エディンバラ公の父上のギリシャ国王は、

もとはと言えばデンマークの王子がギリシャに来て即位したものである。


 ギリシャだけでなく、オスマントルコが分裂して成立した

後継国家のルーマニア、ブルガリアでも、

国外のやんごとなき人(貴族・王族)を受け入れ王政が成立した。


 ことにギリシャでは長い歴史の中で、

西欧の貴族階級的な階級はとうの昔に無くなっていた。

 ギリシャ人同士では仲たがいしがちなので、

王家を外から持って来たほうが列強の関与を担保する理由付けになったり、

独裁が防げたりと何かと「実際的」だったのだろうか。



 ギリシャという国家単位では苦難の道を歩んでいるが、

庶民はしたたかに生きている。


「歴史は繰り返す」とすれば、これからも、

ギリシャに安定した国家が長期間成立する事は難しいだろう。

そして、庶民は統計に表れない所でもしぶとく生き延びる。


したたかな人類の歴史を体現する民族なのかもしれない。 

さすが、ヘロドトスを生んだギリシャ文明の末裔を自称する集団である。

そんな事を考えながら、ギリシャのワインを飲みほした夜だった。


「そんなに遊んでいるとギリシャの二の舞になるよ」と厳しい天の声が

聞こえてきたような・・・・さて、頑張らねば・・・

ギリシャ人のようにしぶとく生きよう!


(2013/07/25記)

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2013年6月8日土曜日

マリエンバードの彷徨 

 ボヘミアのドイツ国境に近い、Mariánské Lázně(ドイツ名:マリエンバード)やKarlovy Vary(同:カルロスバード)といった温泉保養地は、王侯貴族や著名人の逗留の場所であった。 

 人々は温泉を飲み、散歩で森林浴をしてリフレッシュをしていたのだろう。 


(コロナーダ=飲泉場)

川沿いや山に向かって散歩道が広がり、コロナーダが点在する

緑の木々はどこまでも続く 

美しく整備されているホテルの建物

大噴水とコロナーダ

点在するコロナーダは個性的な建築様式である


思い思いの意匠の飲用陶器やペットボトルに汲んで飲む


 資源高騰で沸いたロシアからの観光客がチェコに盛んにやってくる。ロシアによる不動産投機が盛んなようで、ロシア語の宣伝も目立つ。

ロシア語の不動産広告

 チェコにとっては貴重な外貨獲得手段であるから、彼らをむげにはできない。マリエンバード近郊にはロシア各地からの直行便が発着する空港も有る

 日本で言えば軽井沢のような地域でドイツ系住民が多数派だったエリアだ。ノーベル賞作家のギュンター・グラスの所属していた武装親衛隊はこの地でアメリカ軍に降伏している。

 
 1945年以降にドイツ系住民を追放した後はチェコ人が集住、そして今、ロシア人たちが大挙して訪れる。この約70年間で、往来する人々の人種についてはすさまじい変化が起きているのかもしれない。

 山々や建物だけがその変化をじっと見つめているのだ。

 
 散歩道に点在する記念碑にはドイツ系の名が目立つ。 まぎれも無くドイツ系に人々にとってもこころに残っている場所なのだろう。



Heidler, Karl Joseph 温泉医学で有名な学者らしい


 現在では、チェコはEUおよびNATOに加盟しており、対米協力も積極的に行っている。チェコ・アフガンにも派兵している。

 ドイツ等がアメリカの政策に懐疑的な事に対し、チェコのそれは積極的な関与だ。

 ロシアとの国境は無くなったものの、国際情勢いかんで小国の運命は決まるから、アメリカを自国に呼び込んでおく事は重要なのだ。


 このマリエンバードにもパットン将軍の記念碑が有り、解放記念式典が行われていた。

パットン将軍隷下のアメリカ軍が解放



 大国間のバランスを取りながら生きていかねばならない小国の実情を小さな町でも垣間見ることが出来る。

 温泉水を飲むと、心なしか苦み(ビター)と複雑な炭酸系の刺激を感じた。


解放式典にはチアガール達も集結。

こちらは、アメリカ式のスィートエンジェルという所だろうか?

(2013/06/08記)




2013年6月1日土曜日

大胆不敵であれ!


 再び、チェコ訪問記に戻る。Liberationfestival in Plzenは、1990年から続いており、今やこの街の最大のお祭りのひとつであろう。
 先般、記したようにパレードが中心になるが、その前後は、アメリカやヨーロッパから退役軍人やミリタリーマニアが当時の軍用車で集結、家族や仲間たちと町の中心部にキャンプを張って過ごす。

 家族連れで来ているというのも新鮮だ。ドイツからも結構来ているらしく、アメリカ軍の格好をしている彼らからドイツ語も聞こえてきた(旧敵国の制服を着て喜んでいる姿には違和感が有るのだが・・)。
 パットンミュージアム(正確にはPatton Memorial Pilsen)は、この期間はフェスティバルのための特別公開になっていた。


パットンというと戦争好きで豪胆なイメージが強いが、少年時代は「失読症(Dyslexia)」であったらしい。


 軍規に厳しく、電撃戦に強い彼は、バルジの戦いで戦功をあげピルゼンまで進撃したが、政治的な判断でプラハ進撃が出来なかったことは無念であろう。
 

大胆不敵であれ!というのが彼のモットーだった



将兵向けの現地ガイドブック

 大量のガイドブック(会話集・占領地域の概況書)が前線の兵士に配布されていた。チェコの女性を口説く会話まで網羅していたかどうかまでは判らない。
 が、こういった書籍の装丁を見る限り、日本軍の同時代の兵士用の教科書の装丁と比べて華美に出来ており、物量差を強く感じる。 


G.I.とチェコ美人
 

 ちなみに、「G.I」とは GalvanizedIron(亜鉛めっき板)の略とされ、物量的に恵まれたアメリカ兵の装備をもってたアメリカ兵に対する俗称である。

 ちなみに、イギリス兵はTommy Atkins またはTommy、ドイツ兵は Fritz とかKraut (侮蔑的に:ドイツ語のザワークラウト由来)とか呼ばれたようだ。

  

 G.Iたちは、物量作戦でチェコ女性にモーションを掛けていたのかもしれない(苦笑)。


 ベルギー国旗がモチーフとなった展示は、D-day(アメリカ軍のノルマンディー上陸)からピルゼンまでの、ベルギー軍の行軍軌跡を説明していた。
 ベルギーは戦時中にドイツに占領された為、ピルゼンを解放したのはイギリスに亡命した人々からなる部隊である。
 ベルギーもチェコも大国に挟まれている。その意味では似たような境遇にあったともいえるかもしれない。
 
 短編無声映画の上映コーナーがあり、米軍が市広場に入場するシーンが印象的であった。

 そこでPlzenの町の中心広場を歩きまわったが無かった。が、旅から帰ってホテルの名前から検索すると、Plzenではなく、Sušiceという町のホテルであった

 現在はレストランとして存続している模様で隣の建物の形状などからも同じものと特定できる。
 グーグルで検索すると見つかるのも凄ければ、社会主義時代も生き残り、同じ建物で同じ称号で経営し続けている事も凄いと思う。
チェコスロバキア・アメリカの友好式典(当時)

 チェコスロバキアは元々、1918年の独立時から西側世界に目を向けていた。第二次大戦後、アメリカはキラキラと救世主のように輝いていたのかもしれない。
 なぜなら、フランス・イギリスとの同盟関係はナチスドイツの攻勢の前には役に立たず国が消滅したからだ。チェコスロバキア本国の意向などお構いなしに、イギリスが戦争回避の観点からドイツに譲歩して領土をドイツに割譲する事で合意した(1938年9月のミュンヘン協定)。
 第一次大戦後の外交では、大国同士の総力戦回避が最優先であった。チェコスロバキアの独立は、ドイツやオーストリア、トルコといった国々の力を削ぐための大国の外交政策でもあった。
 アメリカのウィルソン大統領の「民族自決の原則」も、一義的にはこれらの政策を正当化するためにあった。もっと言えば、新興市場獲得、という狙いもあったのだろう。
 

 ありていに言えば、新興独立国の思惑など大国にしてみればどうでもよかったのである。この図式を理解しておかないと、「ミュンヘン協定」の意味合いがピンとこない所であろう。

 「民族自治の原則」などは大国間の駆け引きの道具にしか過ぎなかった。
 
 第二次大戦後、チェコスロバキアにしてみれば、イギリスよりもアメリカ重視といきたかったところだが、そうは問屋がおろさなかった。

  ロンドン亡命政府系勢力とソ連の影響下にあった共産主義勢力との連立政権により新生チェコスロバキアは独立した。
 アメリカとしてはドイツや日本の戦後処理を優先する必要もあり、チェコへの関与は限定的なものになったのだろう(この経緯はこれからの筆者の研究対象でもある)。

  チェコスロバキア・アメリカ友好の手紙のやり取り
 

 パットン将軍自身は1945年12月9日、ドイツ・マンハイム郊外で交通事故で死亡した。丁度、アメリカ軍はピルゼンから撤退した時期である。 


 時代は、ピルゼンとアメリカとの友好関係を許さなくなっていく。そんな事を暗示する死だったのかもしれない。

 最後のコーナーは、アメリカ軍撤退後の苦難の歴史展示だった。

「檻の中」の展示

 1948年により共産勢力が権力奪取。
 西側諸国との接触が有った多くの人々が公職追放にあい、場合によっては投獄・処刑された。亡命せざるを得なかった人もいた。
 そして1953年の労働者反乱、1968年のプラハの春。
 冷戦終結までアメリカ軍による西ボヘミア解放は公式史から抹消された。

教科書も改竄されていた。

 説明は淡々としたものであったが、苦しみ、悲しんだ人々を「檻の中」で展示する事で表現していた。言葉よりも、その演出が一番わかりやすい。 

 時の為政者にとって都合の悪い事を教えないというのは洋の東西を問わない。それがゆえに、家族単位で、口コミで、様々な出来事を伝承していった。あるいはリスクを負いながらも、様々な資料を隠し持っておくということも重要になっていた。

 筆者の見る所、この博物館にはアメリカから寄贈された資料が多いが、当時の手紙などの重要なアイテムはチェコ国内で隠し持たれていたものがあるだろうと、見立てている。 

 こういった取り組みはこれからも、「大胆不敵であれ!」というパットンの言葉のように行っていかねばならないだろう。 
 




プラハはおしゃれな女性が闊歩していたが、ピルゼンも中々のもの。


  

 時代が変わり、ピルゼンの旧市街の中心部は明るさを取り戻した。

次に訪れるときはどのようになっているだろうか・・・

 筆者も大胆不敵に精進してまいりたい。  

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(2013年6月1日記)


※1 Battalion(大隊)は 300–1,300名で構成され、中佐か少佐が指揮。