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2014年5月12日月曜日

ノルマンディ上陸作戦博物館(ポーツマス)

ロンドンから海を求めると、ブライトンやポーツマスあたりが一泊二日で便利だろうか。

近現代史、ということになると、イギリスの博物館は充実している。

ノルマンディに行く場合でも、ポーツマスからフェリーが出ているようだが時間はかかる。そこで手っ取り早く、ノルマンディ上陸作戦を知ろうとした場合、D-Day museum がおすすめだ。

なお、ビジネスとノルマンディ上陸作戦の関連性に関しての、日経から出ている記事が面白い。

巨大組織にみる緻密すぎる計画と局所最適化の弊害












駅からは離れている

2014年3月2日日曜日

ウクライナ レジスタンスの光と影(ハプスブルグの面影を求めて:その6)

 リヴィウを訪問した目的の一つは、リヴィウが第二次大戦後も反ソ反独の独立派勢力(ウクライナ蜂起軍)の根拠地の一つであり、今、この地でウクライナ蜂起軍がどのように位置づけられているのかをこの目で見たかったからである。 ここは1945年迄、ロシア(ソ連)の歴史的な領土になった事が無いエリアだ。 

歴史博物館「解放の苦闘」分館 

 第二次大戦後、旧ポーランド領だったリヴィウはウクライナ=ソビエト共和国の一部となる。 そして、ウクライナ蜂起軍のリーダーであったRoman Shukhevychは、1950年にリボフで戦死している。 
 そのためか、この街には、今回訪れた歴史博物館「解放の苦闘」分館 (23-a Lysenka St.) だけでなく、指導者のRoman Shukhevychを記念するMuseum of General-Lieutenant of the UIA Roman Shukhevychの二つの展示がある。

 

歴史博物館「解放の苦闘」分館 

なぜ、この地に反ソ反独の気風が養われたのであろうか? ウクライナのおかれた歴史にある。

 ウクライナは現在では人口45百万人(世界27位)の比較的大きな国家であるが、13世紀のモンゴル侵攻以降、独自の国家を持たず近隣諸国の支配を受け続けてきた。カナダなど海外にいるウクライナ系移民も多い。
 
 大学院の寮で一緒だった、ウクライナ系カナダ人の留学生がウクライナの国章をペンダントに付けていたのを思い出す。彼女は自分のアイデンティティをウクライナに置いているから、と説明してくれた。 佐藤優氏によれば、カナダで3番目に話されている言語はウクライナ語だという。  

 ヨーロッパの穀倉地帯でもあり、天然の要害が無い。美女も多いが故に常に大国の狙う所となったのであろうか。

 ウクライナは、ロシアでの1917年革命以降、独立運動とソビエト化の流れが複雑に絡み合い、最終的にソビエトの一構成国になるのだが、 特にスターリン時代に、ウクライナの人口を減らす事と外貨稼ぎの一石二鳥を狙うため、「ホロドモール(穀物の強制輸出による人口的飢餓や強制移住)」が行われ、数百万~一千数万人の人々が亡くなっている。

 このような状況下、各国の境界に位置していた西ウクライナを背景に様々な政治活動が繰り広げられた。

1939年にチェコスロバキアから独立したカルパート・ウクライナの展示

 カルパート・ウクライナはチェコスロバキアが消滅する前に一部地域が独立したものだ。が、直後、ハンガリーにより併合されてしまう。戦後はソ連庇護のもと再独立。最終的にウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部となる。


ウクライナ義勇兵からなる第14武装親衛隊 武装擲弾兵師団 
ガリーツィエン(ウクライナ第1)の師団章が左腕にある。


ナチスドイツの軍服を着たウクライナ兵(師団章で判る)

 その後、第二次大戦では独ソ戦の主戦場となり、ウクライナ人は、ドイツに協力する勢力、親ソ勢力、ウクライナ蜂起軍の三つ巴状態となり、第二次大戦後も1950年代まで治安が安定しなかった。シベリア送りになった指導者層も多く存在した。

シベリアの収容所の写真や生活の展示も有った


 隣接するポーランド領内もウクライナ蜂起軍の活動拠点であったため、共産政権下のポーランドがせん滅の軍事行動(ヴィスワ作戦)を実施した位に手強いものであった。

ウクライナ蜂起軍のメンバーたち

ウクライナ蜂起軍の拠点・要人等を示した地図。
右上の「赤と黒」は蜂起軍の旗



 このような抵抗運動を多くの日本人は経験していないので、理解しにくい部分も有るが欧州の人々のアイデンティティの中に「レジスタンス」という光と影が色濃く残っている事は見落としてはならないだろう。

現在の国旗と各地のコートオブアームス

ウクライナの歴史については、中公新書の「物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書) 」が判りやすい。 2007年に購入した時から必要に応じて繰り返し読んでいたが、旅行前にも改めて確認の意味で精読。 今回の事態の歴史的背景を理解する上ではお勧めだ。
 

(2014/3/2 記)

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注:この博物館にはウクライナ語でしか展示が無かったので理解に誤りが有る部分が有るかもしれない。誤認識については、ご指摘頂ければ幸いです。

2013年6月1日土曜日

大胆不敵であれ!


 再び、チェコ訪問記に戻る。Liberationfestival in Plzenは、1990年から続いており、今やこの街の最大のお祭りのひとつであろう。
 先般、記したようにパレードが中心になるが、その前後は、アメリカやヨーロッパから退役軍人やミリタリーマニアが当時の軍用車で集結、家族や仲間たちと町の中心部にキャンプを張って過ごす。

 家族連れで来ているというのも新鮮だ。ドイツからも結構来ているらしく、アメリカ軍の格好をしている彼らからドイツ語も聞こえてきた(旧敵国の制服を着て喜んでいる姿には違和感が有るのだが・・)。
 パットンミュージアム(正確にはPatton Memorial Pilsen)は、この期間はフェスティバルのための特別公開になっていた。


パットンというと戦争好きで豪胆なイメージが強いが、少年時代は「失読症(Dyslexia)」であったらしい。


 軍規に厳しく、電撃戦に強い彼は、バルジの戦いで戦功をあげピルゼンまで進撃したが、政治的な判断でプラハ進撃が出来なかったことは無念であろう。
 

大胆不敵であれ!というのが彼のモットーだった



将兵向けの現地ガイドブック

 大量のガイドブック(会話集・占領地域の概況書)が前線の兵士に配布されていた。チェコの女性を口説く会話まで網羅していたかどうかまでは判らない。
 が、こういった書籍の装丁を見る限り、日本軍の同時代の兵士用の教科書の装丁と比べて華美に出来ており、物量差を強く感じる。 


G.I.とチェコ美人
 

 ちなみに、「G.I」とは GalvanizedIron(亜鉛めっき板)の略とされ、物量的に恵まれたアメリカ兵の装備をもってたアメリカ兵に対する俗称である。

 ちなみに、イギリス兵はTommy Atkins またはTommy、ドイツ兵は Fritz とかKraut (侮蔑的に:ドイツ語のザワークラウト由来)とか呼ばれたようだ。

  

 G.Iたちは、物量作戦でチェコ女性にモーションを掛けていたのかもしれない(苦笑)。


 ベルギー国旗がモチーフとなった展示は、D-day(アメリカ軍のノルマンディー上陸)からピルゼンまでの、ベルギー軍の行軍軌跡を説明していた。
 ベルギーは戦時中にドイツに占領された為、ピルゼンを解放したのはイギリスに亡命した人々からなる部隊である。
 ベルギーもチェコも大国に挟まれている。その意味では似たような境遇にあったともいえるかもしれない。
 
 短編無声映画の上映コーナーがあり、米軍が市広場に入場するシーンが印象的であった。

 そこでPlzenの町の中心広場を歩きまわったが無かった。が、旅から帰ってホテルの名前から検索すると、Plzenではなく、Sušiceという町のホテルであった

 現在はレストランとして存続している模様で隣の建物の形状などからも同じものと特定できる。
 グーグルで検索すると見つかるのも凄ければ、社会主義時代も生き残り、同じ建物で同じ称号で経営し続けている事も凄いと思う。
チェコスロバキア・アメリカの友好式典(当時)

 チェコスロバキアは元々、1918年の独立時から西側世界に目を向けていた。第二次大戦後、アメリカはキラキラと救世主のように輝いていたのかもしれない。
 なぜなら、フランス・イギリスとの同盟関係はナチスドイツの攻勢の前には役に立たず国が消滅したからだ。チェコスロバキア本国の意向などお構いなしに、イギリスが戦争回避の観点からドイツに譲歩して領土をドイツに割譲する事で合意した(1938年9月のミュンヘン協定)。
 第一次大戦後の外交では、大国同士の総力戦回避が最優先であった。チェコスロバキアの独立は、ドイツやオーストリア、トルコといった国々の力を削ぐための大国の外交政策でもあった。
 アメリカのウィルソン大統領の「民族自決の原則」も、一義的にはこれらの政策を正当化するためにあった。もっと言えば、新興市場獲得、という狙いもあったのだろう。
 

 ありていに言えば、新興独立国の思惑など大国にしてみればどうでもよかったのである。この図式を理解しておかないと、「ミュンヘン協定」の意味合いがピンとこない所であろう。

 「民族自治の原則」などは大国間の駆け引きの道具にしか過ぎなかった。
 
 第二次大戦後、チェコスロバキアにしてみれば、イギリスよりもアメリカ重視といきたかったところだが、そうは問屋がおろさなかった。

  ロンドン亡命政府系勢力とソ連の影響下にあった共産主義勢力との連立政権により新生チェコスロバキアは独立した。
 アメリカとしてはドイツや日本の戦後処理を優先する必要もあり、チェコへの関与は限定的なものになったのだろう(この経緯はこれからの筆者の研究対象でもある)。

  チェコスロバキア・アメリカ友好の手紙のやり取り
 

 パットン将軍自身は1945年12月9日、ドイツ・マンハイム郊外で交通事故で死亡した。丁度、アメリカ軍はピルゼンから撤退した時期である。 


 時代は、ピルゼンとアメリカとの友好関係を許さなくなっていく。そんな事を暗示する死だったのかもしれない。

 最後のコーナーは、アメリカ軍撤退後の苦難の歴史展示だった。

「檻の中」の展示

 1948年により共産勢力が権力奪取。
 西側諸国との接触が有った多くの人々が公職追放にあい、場合によっては投獄・処刑された。亡命せざるを得なかった人もいた。
 そして1953年の労働者反乱、1968年のプラハの春。
 冷戦終結までアメリカ軍による西ボヘミア解放は公式史から抹消された。

教科書も改竄されていた。

 説明は淡々としたものであったが、苦しみ、悲しんだ人々を「檻の中」で展示する事で表現していた。言葉よりも、その演出が一番わかりやすい。 

 時の為政者にとって都合の悪い事を教えないというのは洋の東西を問わない。それがゆえに、家族単位で、口コミで、様々な出来事を伝承していった。あるいはリスクを負いながらも、様々な資料を隠し持っておくということも重要になっていた。

 筆者の見る所、この博物館にはアメリカから寄贈された資料が多いが、当時の手紙などの重要なアイテムはチェコ国内で隠し持たれていたものがあるだろうと、見立てている。 

 こういった取り組みはこれからも、「大胆不敵であれ!」というパットンの言葉のように行っていかねばならないだろう。 
 




プラハはおしゃれな女性が闊歩していたが、ピルゼンも中々のもの。


  

 時代が変わり、ピルゼンの旧市街の中心部は明るさを取り戻した。

次に訪れるときはどのようになっているだろうか・・・

 筆者も大胆不敵に精進してまいりたい。  

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(2013年6月1日記)


※1 Battalion(大隊)は 300–1,300名で構成され、中佐か少佐が指揮。





  

2013年5月10日金曜日

プラハの国立技術博物館・軍事史博物館



  久し振りにチェコの数都市とドイツのニュルンベルグ・インゴルシュタットを訪問した。

   ヒトラーの政権掌握(1933-34年)についてのエッセイを書き上げた後の、束の間の休日を食事とビールの旨い中欧で過ごそうという算段だった。

 各都市で訪問した博物館の印象を数回に分け、記してみたい。


国立技術博物館:威圧的な共産党時代の建築

チェコゆかりの航空機、鉄道、自動車、バイク、自転車たち

    プラハの国立技術博物館は21年ぶりの訪問で建物の外装こそ変わっていなかったが、展示内容は前回の訪問時とはかなり印象が変わっていた。


Aero 50HP (1937年製)

Tatra 77a (1937年製)

Praga 350 (1933年製)

 前回記録が手元に無く、当時の詳細な記憶もなく、正確な比較は出来ない。
 
が、自動車やバイクのコレクションが増え、展示方法が洗練されていたと感じた。その費用がかかりすぎたのか、入館料も少々高額。写真撮影料(100チェココルナCZK)を含めトータル270 CZK(約1350円)。チェコの給与水準(月収12万円)と他の物価(昼定食100 CZK以下/プラハ地下鉄片道32 CZK)に比すればかなり高い印象だ。

1950年代のガスオーブンや冷蔵庫。曲面を生かしたデザインが○


  それはさておき、第二次大戦が始まる前までの工業技術力の高さ、デザインのよさは、車だけでなく日常の電化製品(いわゆる白物家電)のコレクションからうかがい知ることができる展示だ。ナチドイツはその工業力の高さに目を付け、オーストリアに次いで併合・衛星国化(スロバキア)した。そのため、戦時中は兵站として重要な役割を担わされ連合軍の猛爆撃にあった地域も有る。

 自動車コレクションを見る限り、車体剛性、最高速度等、加工技術においてドイツ車に遜色無い印象で、正直のところ、トヨタ博物館に展示されていた戦前の日本車が大したことなく思える出来栄え。印刷技術の展示コーナーもあり、実際の輪転機や活字印刷道具のコレクションをドイツ人観光客が熱心に見ていた。

印刷関係の装備

何気に座り心地の良いソファーが・・・



軍事史博物館


 同じく、プラハの軍事史博物館(The Army Museum Žižkov)も訪問した。こちらは第1次大戦前後のチェコスロバキア独立運動から第二次大戦後にソ連の衛星国になるまでのプロセスを展示している。

 この国の悲劇は、高い工業力が有りながら、ドイツとロシアの間に挟まれ、運命を自ら決する事が出来なかった事にあるだろう。

第一次大戦でイギリス国内で発行された義勇軍勧誘ポスター

 第一次大戦で各国軍に義勇兵として参加し大きな犠牲を払って独立した。


日本製の「有坂銃」は義勇兵によって用いられたようだ。


建国の父、マサリクの顕彰記念碑 (チェコとスロバキアの両国旗が掲げられる)



 しかし、束の間の幸せもナチドイツに奪われた。

 そのナチスを駆逐するために、再び義勇兵は、主にイギリス軍とソビエト軍に身を投じ戦った。

連合国側での義勇軍募集ポスター


ナチドイツも戦局悪化につれ、なりふり構わず戦争協力を呼び掛けた


 しかし、イギリス側で参戦した将兵の多くは、戦後の共産化(1948年~)の中で「西側のスパイ」と濡れ衣を着せされ、有るものは処刑、あるものは公職追放・・・と再び大きな犠牲を強いられた。


 明らかに民度・生活レベル共に低いロシアに従わざるを得なかったチェコ・スロバキア両国民にとっては、戦後40年以上は屈忍耐の時代であったに違いない。1968年の「プラハの春」の挫折、それでも生き延びてきた苦難の歴史の展示でもある。

左上に「プラハの春」の写真


 入場無料で、駅やバス停からちょっと離れているが、老若男女訪れていた。

 声高に「愛国」と絶叫するのではなく、静かに「苦難の歴史を忘れてるな。油断すれば国が地図上から消える。自衛の気概を持つだけでなく冷静に対処せよ」と諭し語りかけるような展示であった。


 ベルリンの壁崩壊とともに、漸く西側文明への回帰を果たしたこの国の行く末をこの目で見続けて行きたい。

 
 国立技術博物館の出口に残っていた「タイムカード」。 レトロな木製ボックスが新鮮!
社会主義時代に使われていたものなのだろうか?








 なお、ヒトラーの権力奪取のプロセスについては、「ヒトラー権力掌握の20カ月」が流れを整理する上で参考になった。ご興味ある向きにおかれては、一読を勧めたい。



 チェコ義勇兵のWW2での活躍と戦後の過酷な運命を理解するだけでなく、大人のエンターテイメントに仕上がった、このチェコ映画「ダークブルー」もお勧め。


(2013年5月10日記)


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