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2014年4月17日木曜日

「ギャング」に遭遇・ウクライナ・リヴィウ(ハプスブルグの面影を求めて:その9)

リヴィウの丘の上の城跡に向かう途中、「パンパン」と乾いた音が聞こえてきた。
目の前にはマシンガンやピストルを持った男たちが車から飛び出て来た・・・・・
筆者はВисокий Замок (ウィソーキー・ザーモック) という旧跡に向かっていたのだが・・・



「ギャング?!」

黒服の一群が此方に向かって、何やら大声で駆けてくる・・・X!?V??



どうも、映画の撮影なのか、コスプレ撮影会だったようなのだが、公道で派手な銃撃戦のマネとはちょっと心臓に悪い・・・

撃ち合いの指導をする監督らしき人もいた


銃の持ち方は手慣れた感じだったが、兵役の為によるものか,
はたまたコサック以来の民兵の伝統なのか?

気持ちを取りなおして、丘の頂上まで向かう。


往古リヴィウの町を一望できる城は、今ではカップルたちの熱い城と化していた・・・


幸せの鍵・・・

東欧圏では幸福を願うためか、鍵を名所にとりつける風習が有るようだ。

ラトビアのリガでは街中に流れる橋に沢山ついていた・・・

上を見やると、ウクライナ国旗がたなびいている。
ソビエト時代は別の国旗が掲揚されていたのだろうか?

クリミアの様に国旗が再び変わる様な事が無い事を祈るばかりだ・・・


  国旗とくれば、国歌はどのようなものであろうか?

「ウクライナは滅びず」 (Ще не вмерла Україна)

ウクライナ国歌解説(Wiki) によれば「コサック」の子孫である事を称える歌詞になっている。

「コサック」と聞くと「ダンス」という固定観念が頭から離れないのだが・・・・


「ホパーク」という、ウクライナ由来の伝統舞踊との事である。

話がギャングからコサックダンスに流れてしまったが、西部ウクライナで流血の事態は考えにくいが、東部ウクライナの情勢が気になる。

圧倒的な兵力に対峙せねばならない、強力な同盟国の無いウクライナ。
彼らの国歌が歌うように「ウクライナは滅びず」と行けば良いのだが。

(2014/04/17記)



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2014年4月4日金曜日

ウクライナ リヴィウ オペラ劇場とカフェ(ハプスブルグの面影を求めて:その8)

  前日に見たバレエ(Giselle )はソ連時代の影響も強いと思われるが・・・劇場の建物自体は、オーストリア・ハンガリー時代の末期に建築されたものだった。



それにしてもダンサーたちのスリムな事(動画)・・・

モスクワだと秋口でも寒いのでオープンカフェは想像しにくいが、このリヴィウにはあちこちにカフェもレストランも屋外のスペースを持っていた。


 オーストリア、チェコ、イタリアのトリエステと同じ町のたたずまい。ヨーロッパの最東端で中欧の隠れた魅力にまた引き込まれていく自分を感じる。


 ソ連時代はどうだったのだろうか・・・今度、訪問した時に調べてみたい。

市庁舎前の広場ではお土産の屋台。モスクワではこんなおっとりした商売は信じられない。


ゆったりとした時間が流れ、旧ソ連圏であることをすっかり忘れてしまった。

ピカチュウもどき発見

 短期ならビザ無しで渡航できるウクライナ(2014年4月現在)、治安に注意しながら訪問出来る時に訪問すべきかもしれない。別の国に実効支配されてしまえば訪問も難しくなる。

DTACウクライナ観光情報局 リヴィウ

 民族問題の先鋭化は日本も他人事では無い。現に沖縄の新聞を読むと「中央政府はXX」といった文言が頻出する。
 例えば大田前知事の2011年11月30日の琉球新報の談話記事。「琉球独立」を発信する学会も存在する。 本土で生まれ育った人間には判りにくい構図が共有されている。 日本語を話す人々が違う国家に属する、という構図は今はないが、50年後には判らない。

 イデオロギー終焉・国際協調の時代は完全に終わり、再びブロック経済・帝国主義的な時代が来る前の最期の輝きにならねば良いのだが。

2014年3月21日金曜日

ウクライナ リヴィウ中央駅(ハプスブルグの面影を求めて:その7)

 ハプスブルグの面影を求めて歩いていると、旧市街では町の作りもライフスタイルも、色濃くヨーロッパを感じる。

 市街地の外れに続く路面電車の線路をたどると宮殿の様なものが見えてきた。

大通りとトラムが向かう先は宮殿?

リヴィフ中央駅

 英語版Wikiによれば、アールヌーヴォー調の建築として1904年にオーストリア・ハンガリー帝国時代に建築されたということだ。 

 第二次大戦で被害を受けた後、再建するに当たり「スターリン様式」で復旧すべしという意見も出た。時の設計者は、内装をスターリン様式として外装はオリジナルのもので対処する、という折衷案を提示し、リノベーションが繰り返され今に至っている。

 スターリン時代といえども、完全なロシア化を強行する事はウクライナ民族意識の強い当地では難しかった、という証左なのかもしれない。

ゆったりとした表玄関

彫刻も飾られており、寺院の様な趣?

正面玄関にはアールヌーヴォー調の装飾がある駅名表示があり、華やかな時代を想起させる。

Львівリヴィーウ と書いてある

 暗いが広々とした待合室など構内は、ソビエト時代を想起させるものだった。人がごった返していたので、カメラを取り出すのは憚られた。

 落書きも無く、ホームは日本のものよりも長くすっきりしていた。

ホームにはウッディなキヨスクや電話ボックスが有って、ロシアとの相違を感じる。

キヨスク

ウクライナ鉄道150周年のポスター、電話ボックス

写真をよく見ると、駅のエアコンは富士通製だ。こんな所に食い込んでいるとは知らなかった。というか、日本で富士通製のエアコンは見た事が無いのだが・・・・

一方で、車両はソビエト時代の面影を留めているものばかりだ


西ヨーロッパの標準軌(日本では新幹線)よりも広いので車両の幅も大柄。ただ、トイレは垂れ流しなので、余り近寄りたくない(苦笑)

モスクワ行きの列車

機関車はシベリア鉄道の旅でも見かけたものだった。2M62という重連型で貨物列車を牽引。 日本で言えばDD51という位置付けになる汎用機種だ。

大陸間弾道ミサイル運搬用の派生機種も有ったようだ。

旧ソビエト製のディーゼル機関車

 このまま、どこかの町に汽車旅をしたい衝動をこらえて、駅を出た。

 駅前から町の中心はトラムが走っているが、日本の車両と違い片方にしか運転台が付いていないので、大抵の場合、向きを変えるためのループ線が起終点にある。

駅前のトラムのループ

交通の見張り用建物や後ろにある機関車工場の建物は、ソビエト時代の武骨な建物だ。


 さて、最近のウクライナ事情で色々な方々が論評している。興味深い記事のリンクをいくつか。

欧露の貿易戦争で深い傷を負うのはロシア ウクライナ危機と西欧の苦悩
熊谷徹氏はドイツ在住のジャーナリスト。

混迷極めるウクライナ 「ロシア化」のドミノを恐れる欧米
 コーカサス地域研究家の廣瀬陽子氏がリヴィウ(リヴォフはロシア語読み)について、「西欧に近い」と言及している。現在のウクライナ情勢についてバランス良い論評をしている。


 リヴィウの治安情勢は細かくは判らないが、昨日、リヴィウのオペラハウスとメールのやり取りをする機会が有ったが、様々な政治的動向があっても演目は上演されているようだ。 

 最近、芦田均元外相の『革命前後のロシア (1958年)』という本を読了したが、革命のさなかでもバレエが上演されていた事が言及されていたので、ヨーロッパ社会とはこういうものなのか、と改めて実感する。

   きっかけになった書評はForesight誌の2005年に掲載された「若き外交官補・芦田均による驚くべき記録と洞察」。

 堅いエピソードも色々あるが、観劇の感想や市民生活、独身30歳の彼がロシア女性に言い寄られる描写などもさりげなく盛り込まれており、革命末期の混沌とした世情を生き生きと描いている。 外交官というよりも好奇心旺盛な青年作家という趣きだ。

 ロシア人気質、というものを知るには良い一冊という印象を持った。大学の閉架図書に眠っているかもしれない。興味ある向きには一読を勧める。

 クリミアで今起こっている事は、北方領土や尖閣列島と密接に関わってくるので注視が必要だ。もっと言えば、「沖縄が独立主張」という事態が近未来に起こった場合のアナロジーになるかもしれない。

 リヴィフを訪れたのは、ハプスブルグの面影をたどったり、ウクライナ民族主義の震源地であることを知りたかった為だったのだが、数か月で様々な景色が変わっていく。

 国際協調の時代から、オセロの様にように国境がひっくり返る「なんでもあり」の世界に向かっている時こそ、過去の事象や教訓を認識する必要が高まってくる。

(2014/03/21記)

2014年3月2日日曜日

ウクライナ レジスタンスの光と影(ハプスブルグの面影を求めて:その6)

 リヴィウを訪問した目的の一つは、リヴィウが第二次大戦後も反ソ反独の独立派勢力(ウクライナ蜂起軍)の根拠地の一つであり、今、この地でウクライナ蜂起軍がどのように位置づけられているのかをこの目で見たかったからである。 ここは1945年迄、ロシア(ソ連)の歴史的な領土になった事が無いエリアだ。 

歴史博物館「解放の苦闘」分館 

 第二次大戦後、旧ポーランド領だったリヴィウはウクライナ=ソビエト共和国の一部となる。 そして、ウクライナ蜂起軍のリーダーであったRoman Shukhevychは、1950年にリボフで戦死している。 
 そのためか、この街には、今回訪れた歴史博物館「解放の苦闘」分館 (23-a Lysenka St.) だけでなく、指導者のRoman Shukhevychを記念するMuseum of General-Lieutenant of the UIA Roman Shukhevychの二つの展示がある。

 

歴史博物館「解放の苦闘」分館 

なぜ、この地に反ソ反独の気風が養われたのであろうか? ウクライナのおかれた歴史にある。

 ウクライナは現在では人口45百万人(世界27位)の比較的大きな国家であるが、13世紀のモンゴル侵攻以降、独自の国家を持たず近隣諸国の支配を受け続けてきた。カナダなど海外にいるウクライナ系移民も多い。
 
 大学院の寮で一緒だった、ウクライナ系カナダ人の留学生がウクライナの国章をペンダントに付けていたのを思い出す。彼女は自分のアイデンティティをウクライナに置いているから、と説明してくれた。 佐藤優氏によれば、カナダで3番目に話されている言語はウクライナ語だという。  

 ヨーロッパの穀倉地帯でもあり、天然の要害が無い。美女も多いが故に常に大国の狙う所となったのであろうか。

 ウクライナは、ロシアでの1917年革命以降、独立運動とソビエト化の流れが複雑に絡み合い、最終的にソビエトの一構成国になるのだが、 特にスターリン時代に、ウクライナの人口を減らす事と外貨稼ぎの一石二鳥を狙うため、「ホロドモール(穀物の強制輸出による人口的飢餓や強制移住)」が行われ、数百万~一千数万人の人々が亡くなっている。

 このような状況下、各国の境界に位置していた西ウクライナを背景に様々な政治活動が繰り広げられた。

1939年にチェコスロバキアから独立したカルパート・ウクライナの展示

 カルパート・ウクライナはチェコスロバキアが消滅する前に一部地域が独立したものだ。が、直後、ハンガリーにより併合されてしまう。戦後はソ連庇護のもと再独立。最終的にウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部となる。


ウクライナ義勇兵からなる第14武装親衛隊 武装擲弾兵師団 
ガリーツィエン(ウクライナ第1)の師団章が左腕にある。


ナチスドイツの軍服を着たウクライナ兵(師団章で判る)

 その後、第二次大戦では独ソ戦の主戦場となり、ウクライナ人は、ドイツに協力する勢力、親ソ勢力、ウクライナ蜂起軍の三つ巴状態となり、第二次大戦後も1950年代まで治安が安定しなかった。シベリア送りになった指導者層も多く存在した。

シベリアの収容所の写真や生活の展示も有った


 隣接するポーランド領内もウクライナ蜂起軍の活動拠点であったため、共産政権下のポーランドがせん滅の軍事行動(ヴィスワ作戦)を実施した位に手強いものであった。

ウクライナ蜂起軍のメンバーたち

ウクライナ蜂起軍の拠点・要人等を示した地図。
右上の「赤と黒」は蜂起軍の旗



 このような抵抗運動を多くの日本人は経験していないので、理解しにくい部分も有るが欧州の人々のアイデンティティの中に「レジスタンス」という光と影が色濃く残っている事は見落としてはならないだろう。

現在の国旗と各地のコートオブアームス

ウクライナの歴史については、中公新書の「物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書) 」が判りやすい。 2007年に購入した時から必要に応じて繰り返し読んでいたが、旅行前にも改めて確認の意味で精読。 今回の事態の歴史的背景を理解する上ではお勧めだ。
 

(2014/3/2 記)

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注:この博物館にはウクライナ語でしか展示が無かったので理解に誤りが有る部分が有るかもしれない。誤認識については、ご指摘頂ければ幸いです。

2014年2月2日日曜日

ウクライナ リヴィウは変身中(ハプスブルグの面影を求めて:その5)

 リヴィウの旧市街には、ハプスブルグ時代の面影があちらこちらに感じられたが、走っている筈の市電も運行停止している様だし、何かが起こっている様だ。

路面電車でなくオモチャな観光バスが走ってきた

 旧市街から町外れの中央駅の方に向かう道には道の石畳がうず高く積まれていた。何やら物々しい雰囲気・・・

 バリゲートの様な石が積み重なっている。何か反政府活動でもあるのだろうか??
その昔、パリで学生運動華やかし頃、石畳を剥がして投石していたと聞いているし・・・

バリケード?

 どうやら、下水道埋設と路面電車の線路更新の同時実施と言うことらしかった。

 旧ソ連圏の各都市の路面電車の多くはお世辞にも、乗り心地が良くない。

社会主義時代そのままの線路や車両が多く、その改善を図る野心的な計画にも見える。

町中が穴ぼこだらけ

冬に間に合うのか微妙なくらい大規模な工事だ(リヴィウ訪問は10月)。

この街はスロバキアからの国境に近い。この工事にはEUからの融資でもあったのだろう。1月末のキエフと違って政治関係の緊張感は感じられなかった。

完全通行止

道が広めなのは社会主義時代の名残?


市電の線路も近代化される

 旧市街に戻ると、今日もまた結婚式日和なのか、あちこちで新婚さん達が記念写真。

みんな何だか良い感じ

歴史博物館の前でお兄さんが何やら呼び込みをしていた。

中に入ってお金を払うと、係員が「こっちに来い」という手招き。

妙に南国並みの暖かさを感じた。 孵化したての蝶を見せるイベントらしい。

南国を模した博物館の一角

孵化したての蝶

 町のあちこちが変身を遂げようとしている。

美しい蝶々達は新しきリヴィウのシンボルのように思えた。


(2014/2/2 記)

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2014年1月23日木曜日

ウクライナ リヴィウ アルメニア人地区を歩く(ハプスブルグの面影を求めて:その4)


 リヴィウに着いた夜、飛び込みで見た、バレエのプリマドンナの優美さが手伝ったのだろうか、美酒を飲みたかった。 旧ソ連圏なら、グルジアワインとアルメニアン・コニャックがベストチョイスだろう。

 地図を見るとリヴィウにはアルメニア人地区が残っていたので、そのあたりに良いレストランも有るだろうと勘が閃く。

 現在のアルメニア自体は、旧ソ連に属するコーカサスにあるキリスト教国だが、歴史的経緯で多くの民が故国以外で生活する事を余儀なくされた、あるいは積極的に行ってきた民族だ。 オーストリア・ハンガリー二重帝国の東端だったこの街でも、経済上、重要な役割を果たしてきたものと思われる。

 俗説ではあるが、「10人のユダヤ人よりも一人のアルメニア人のほうが怖い」という位、その昔からヨーロッパや中東の経済活動において重要な役割を果たしてきた民族である。

 アルメニアについては古い本だが、佐藤 信夫氏の著作が面白い。
大きめの図書館にはまだあるかもしれない。
 
新アルメニア史―人類の再生と滅亡の地 (泰流選書)  


 修士論文も終わり日本に帰らねばならなかったが、「EUとは何か、同じヨーロッパのはずなのに内外を規定する国境とは何か?」といった問いにはまだ回答が出せておらず、やり続けなければならない。筆者がさまよい続ける原点はここにある。
 
 「陸の国境が有るか無いかの経験」の有無は、その国民性や文化に大きな影響を与えるだろう。 たとえ、企業の経済行動の影響が社会全体に与える影響が日増しに大きくなっていくとしても、「グローバルな無国籍人」が増殖するとは考えにくい。 

 ともかくも、歴史的経緯で、リヴィウの街に、アルメニア人街は残った。アルメニア正教会はシンプルな建物だったが信者以外の立ち入りは許されていないようだ。

アルメニア教会


教会の前庭 左手奥にはキリストの磔の像


 アルメニア人街にあるカフェで夜飯を食べ、締めにアルメニア・コニャックを頂く。 カフェの名前は、その名も「Кілікія」(住所Львів, вул. Вірменська, 13)。 英語で言うCiliciaは歴史的なアルメニア王国が存在した、現在のトルコ南部にある地方名である。 

 ソビエト時代の名残か、旧ソ連各国の食事のメニューが供されていた。 シベリア鉄道でも食したメニューが幾つかあったのでその中から選んでみた。 

Restaurant "Cilicia"

レストラン内

ボルシチ

ポークの玉葱マヨネーズ焼き

アルメニアン・コニャック
 
翌昼、再びアルメニア人街を歩いていたら、結婚式を終えたカップルがあちこちで記念写真を撮っていた。 自分の生まれ育った町の記録を残していくのが習慣なのかもしれない。




ウクライナは、主にウクライナ正教の筈なのだが、アルメニアも正教圏ということでさほど問題にならないのだろうか。 若きカップルたちにとってはどうでもいいことかもしれないが(笑)

(2014/1/23記)

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