2013年5月26日日曜日

飛んでイスタンブール

チェコ訪問記を今回は休み、
足許の授業に関連し「トルコ」について取り上げたい。

飛んでイスタンブール(音に注意)」というタイトルが懐かしい方もおられるだろうが、筆者の頭の中はトルコの事ばかりになっている。

 現在、「オスマン帝国から世俗国家(政教分離)となった現在のトルコになっていく経緯を学ぶ」モジュール(授業)を取っており、朝から晩までトルコ関係の資料を読んでいる。

 
 一般に、ロンドン大学の各カレッジでの修士課程では、ビジネスや商業法をはじめ、他の多くのコースは4月で授業終了。それ以降5月下旬までが試験シーズン、8月末までに卒論を仕上げるようになっているが、筆者のコースは6月末まで授業があり、他の学生たちと若干タイムラグがある。

 
   一人ひとりが異なるバックグラウンドで、異なるモジュールを取っているから、基本的には自己管理が非常に重要だ。 筆者の大学時代を振り返るにつけ、何と安直な日々を送ったのかと、今更ながら反省している。

 英語だけでなく、日本語の文献も並行して読了しているが、新井正美氏の「オスマントルコはなぜ崩壊したのか」がめっぽう面白かった。

 トルコは日本が鎖国している間も戦争に明け暮れ、敗北の度に領土を失っていき、最後に「国民国家」を形成することとなった。 19世紀に入り、タンジマートと呼ばれる上からの改革が進められ、部分的に西洋の法体系を導入したりもした。 しかし後継の皇帝が憲法を停止したりと反動も大きかったために、オスマン帝国領内は益々混乱していった。 その中での社会運動などを判り易く教示してくれた一冊である。

 トルコだけでなく周辺民族についての言及も興味深い。例えば、トルコ系タタールについて、「十八世紀後半のエカチェリーナ二世時代に寛容政策がとられた事を契機に、経済的発展を始めていた。(中略)タタール人のネットワークが中央アジア一帯にはりめぐらされることになった。彼らはやがて工業部門にも進出し、十九世紀にはカザン、オレンブルグなどでタタール人ブルジョアが繁栄していたのである(pp.216-217)」とあった。

 「タタールのくびき」と言う言葉は聞いた事があるし、第二次大戦中に発生したスターリンによる「クリミア・タタール人追放も知っていたが、19世紀の事は知らなかった。スターリンが弾圧したのも、「独ソ戦でドイツ側に内通した」という嫌疑をかけて追放したのだが、潜在的に資本主義社会でのスキルある人々を抹殺したという文脈で考えることもできるかもしれないと、膝を打った。その文脈で考えると、バルト三国指導者層のシベリア追放も同じ理由であろう。

 今までの知識と、新たな知識との間に因果関係がありそうな時が結構楽しい瞬間である。 

 同時に日本の隣国ロシアは政治気質として明らかに西側と異なる歴史観・価値観を持っている事をロシアとトルコの関係史からもうかがい知ることが出来る。

 ロシアという国を考える際には、日本とロシアの二国間関係のみならず、他のロシアの隣国(トルコ、バルト三国、ポーランド、歴史的なドイツ等)との関係も理解しておくと、より多面的かつ冷静な判断を行う事が出来るかもしれない。

ちなみに、チェコのPlzenで食した、タルタルステーキも、タタール人由来らしい。

ユッケと同様に、生肉なので、鮮度に自信がある店だけが提供してくれる一品である。 現在のトルコで食せるかどうかは判らないが・・・
 

 そのトルコに住んでいる英語学校の先生だった人が示唆してくれたのだが、イスタンブールで自転車乗り向けに、こんな素敵なイベントがあったとはしらなかった。Istanbul Velonotte


どうやらこの、Velonetteは世界的にイベントがあり、ロンドンでも6月に有るらしい。

とにもかくにも、自転車操業にならぬよう、勉強の方もうまく運転していきたいものだ・・・



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(2013年5月26日記)

2013年5月19日日曜日

パットン将軍のピルゼン解放


 毎年、VE-Day  (Victory-Europe Day ナチドイツ降伏の日) 前後に、ボヘミアの工業都市プルゼニ(Plzeň:ドイツ名ピルゼン)ではWW2メモリアルのフェスティバルが開かれる。1990年から、アメリカ軍による解放を大々的に取り上げ、元従軍将兵・大使館関係者等を招き、当時の車両を用いたパレードを目抜き通りで開催している。今回は、そのフェスに合わせ、プルゼニを訪問した。

装甲車
ハーフトラック(不整地走行に対応し後部がキャタピラ)


 歴史授業で「チェコスロバキアはソビエトが解放した」と習った向きもいるかもしれない。確かにスロバキア方面から進撃した赤軍(ソビエト軍を英語ではThe Red Armyと呼ぶ)はプラハを解放した。しかし、南西ボヘミアはパットン将軍が率いるアメリカ第3軍によって解放された 


 群衆に取り囲まれて行進は進む

 女性の飛び乗り

 
記念碑から市の中心部まで当時の車両を用いたパレードが挙行された
 チェコ美人?

各国軍の行進(チェコ、英、米、仏、ベルギー)
チェコ軍記念碑に各軍関係者が献花
当時を知るベテラン(退役軍人)たち
  当時を偲び再会
 ピルゼンは輸送機器メーカー(シュコダ)の本拠地でもあり、戦時中はドイツの兵器工場としての役割を担わされたため、連合軍の爆撃にも有っている(今では鉄道車両等の製造会社)。
シュコダの工場
 
 政治的な理由でプラハ解放はソビエトの役割となったが、アメリカ軍の駐留下(194511月まで)で、秩序回復とボヘミアに住むドイツ人追放が始まった。
 筆者の知人にもズテーテンドイツ人(中世から現在のチェコに住んでいたドイツ系住民)がおり、財産も故郷を失い西ドイツに逃れた苦難の歴史を伺った事がある。
 陸続きの場合、民族間の関係は複雑かつ微妙な問題である。ヨーロッパ内の一国を礼賛する事は避けた方が良いケースがままある。聞いている相手が礼賛した国に対し敵意を持っていることすらあるからだ。
 また、出身国のマジョリティと本人の民族意識が異なるケースもままある。 ラトビア生まれのロシア人(国内の30%がソ連時代の移住政策によりロシア系)、クロアチア生まれのイタリア系住民(アドリア海沿いは歴史的経緯でイタリア系コミュニティが今でも存在する)、ロシア出身のユダヤ系カナダ人(冷戦終了後にイスラエルへの移住が相次ぎ、そこからさらにカナダへ再移住)・・・
 本人に確認したり、名前等で推測したりして、それほど親しくない場合は、無用なトラブルを避けるように気を付けるのが必要もある。例え親しくても、相応の配慮をしたうえで質問等しなければならないケースもあるだろう。
 特に国名を間違えたり忘れることは失礼にあたるので、大学院に留学するならば、国名・首都・位置は暗記しておくことが肝要だろう。逆に知識があれば、ぐっと親しみを感じる事が出来る。
 専攻に関わらず、自国の歴史は良く知っており語る事ができるのが常識だ。日本にいるうちから特に近現代史は理解しておく必要がある。
 ともかくも「水に流す」といった発想は通用せず、戦後70年近くたっても「忘れないようにする」事を国家単位で取り組んでいるのがヨーロッパ各国の実情である。
 
ピルゼンのミニブルワリーで一杯。こちらは水と同じくらい安い



(2013/05/19記) 









2013年5月10日金曜日

プラハの国立技術博物館・軍事史博物館



  久し振りにチェコの都市とドイツのニュルンベルグ・インゴルシュタットを訪問した。

   ヒトラーの政権掌握(1933-34)についてのエッセイを書き上げた後の、束の間の休日を食事とビールの旨い中欧で過ごそうという算段だった。

 各都市で訪問した博物館の印象を数回に分け、記してみたい。


国立技術博物館:威圧的な共産党時代の建築

チェコゆかりの航空機、鉄道、自動車、バイク、自転車たち

    プラハの国立技術博物館は21年ぶりの訪問建物の外装こそ変わっていなかったが、展示内容は前回の訪問時とはかなり印象が変わっていた。


Aero 50HP (1937年製)

Tatra 77a (1937年製)

Praga 350 (1933年製)

 前回記録が手元に無く、当時の詳細な記憶もなく、正確な比較は出来ない
 
が、自動車やバイクのコレクションが増え展示方法が洗練されていたと感じた。その費用がかかりすぎたのか、入館料も少々高額。写真撮影料(100チェココルナCZK)を含めトータル270 CZK(約1350円)。チェコの給与水準(月収12万円)と他の物価(昼定食100 CZK以下/プラハ地下鉄片道32 CZK)に比すればかなり高い印象だ。

1950年代のガスオーブンや冷蔵庫。曲面を生かしたデザインが○


  それはさておき、第二次大戦が始まる前までの工業技術力の高さ、デザインのよさは、車だけでなく日常の電化製品(いわゆる白物家電)のコレクションからうかがい知ることができる展示だナチドイツはその工業力の高さに目を付け、オーストリアに次いで併合・衛星国化(スロバキア)した。そのため、戦時中は兵站として重要な役割を担わされ連合軍の猛爆撃にあった地域も有る。

 自動車コレクションを見る限り、車体剛性、最高速度等、加工技術においてドイツ車に遜色無い印象で、正直のところ、トヨタ博物館に展示されていた戦前の日本車が大したことなく思える出来栄え。印刷技術の展示コーナーもあり、実際の輪転機や活字印刷道具のコレクションをドイツ人観光客が熱心に見ていた。

印刷関係の装備

何気に座り心地の良いソファーが・・・



軍事史博物館


 同じく、プラハの軍事史博物館(The Army Museum Žižkov)も訪問した。こちらは第1次大戦前後のチェコスロバキア独立運動から第二次大戦後にソ連の衛星国になるまでのプロセスを展示している。

 この国の悲劇は、高い工業力が有りながら、ドイツとロシアの間に挟まれ、運命を自ら決する事が出来なかった事にあるだろう。

第一次大戦でイギリス国内で発行された義勇軍勧誘ポスター

 第一次大戦で各国軍に義勇兵として参加し大きな犠牲を払って独立した。


日本製の「有坂銃」は義勇兵によって用いられたようだ。


建国の父、マサリクの顕彰記念碑 (チェコとスロバキアの両国旗が掲げられる)



 しかし、束の間の幸せもナチドイツに奪われた。

 そのナチスを駆逐するために、再び義勇兵は、主にイギリス軍とソビエト軍に身を投じ戦った。

連合国側での義勇軍募集ポスター


ナチドイツも戦局悪化につれ、なりふり構わず戦争協力を呼び掛けた


 しかし、イギリス側で参戦した将兵の多くは、戦後の共産化(1948年~)の中で「西側のスパイ」と濡れ衣を着せされ、有るものは処刑、あるものは公職追放・・・と再び大きな犠牲を強いられた。


 明らかに民度・生活レベル共に低いロシアに従わざるを得なかったチェコ・スロバキア両国民にとっては、戦後40年以上は屈忍耐の時代であったに違いない。1968年の「プラハの春」の挫折、それでも生き延びてきた苦難の歴史の展示でもある。

左上に「プラハの春」の写真


 入場無料で、駅やバス停からちょっと離れているが、老若男女訪れていた。

 声高に「愛国」と絶叫するのではなく、静かに「苦難の歴史を忘れてるな。油断すれば国が地図上から消える。自衛の気概を持つだけでなく冷静に対処せよ」と諭し語りかけるような展示であった。


 ベルリンの壁崩壊とともに、漸く西側文明への回帰を果たしたこの国の行く末をこの目で見続けて行きたい。

 
 国立技術博物館の出口に残っていた「タイムカード」。 レトロな木製ボックスが新鮮!
社会主義時代に使われていたものなのだろうか?








 なお、ヒトラーの権力奪取のプロセスについては、「ヒトラー権力掌握の20カ月」が流れを整理する上で参考になった。ご興味ある向きにおかれては、一読を勧めたい。



 チェコ義勇兵のWW2での活躍と戦後の過酷な運命を理解するだけでなく、大人のエンターテイメントに仕上がった、このチェコ映画「ダークブルー」もお勧め。


(2013年5月10日記)


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