久し振りにチェコの数都市とドイツのニュルンベルグ・インゴルシュタットを訪問した。
ヒトラーの政権掌握(1933-34年)についてのエッセイを書き上げた後の、束の間の休日を食事とビールの旨い中欧で過ごそうという算段だった。
各都市で訪問した博物館の印象を数回に分け、記してみたい。
国立技術博物館:威圧的な共産党時代の建築
チェコゆかりの航空機、鉄道、自動車、バイク、自転車たち
プラハの国立技術博物館は21年ぶりの訪問で建物の外装こそ変わっていなかったが、展示内容は前回の訪問時とはかなり印象が変わっていた。
Aero 50HP (1937年製)
Tatra 77a (1937年製)
Praga 350 (1933年製)
前回記録が手元に無く、当時の詳細な記憶もなく、正確な比較は出来ない。
が、自動車やバイクのコレクションが増え、展示方法が洗練されていたと感じた。その費用がかかりすぎたのか、入館料も少々高額。写真撮影料(100チェココルナCZK)を含めトータル270 CZK(約1350円)。チェコの給与水準(月収12万円)と他の物価(昼定食100 CZK以下/プラハ地下鉄片道32 CZK)に比すればかなり高い印象だ。
1950年代のガスオーブンや冷蔵庫。曲面を生かしたデザインが○
それはさておき、第二次大戦が始まる前までの工業技術力の高さ、デザインのよさは、車だけでなく日常の電化製品(いわゆる白物家電)のコレクションからうかがい知ることができる展示だ。ナチドイツはその工業力の高さに目を付け、オーストリアに次いで併合・衛星国化(スロバキア)した。そのため、戦時中は兵站として重要な役割を担わされ連合軍の猛爆撃にあった地域も有る。
自動車コレクションを見る限り、車体剛性、最高速度等、加工技術においてドイツ車に遜色無い印象で、正直のところ、トヨタ博物館に展示されていた戦前の日本車が大したことなく思える出来栄え。印刷技術の展示コーナーもあり、実際の輪転機や活字印刷道具のコレクションをドイツ人観光客が熱心に見ていた。
印刷関係の装備
何気に座り心地の良いソファーが・・・
軍事史博物館
同じく、プラハの軍事史博物館(The Army Museum Žižkov)も訪問した。こちらは第1次大戦前後のチェコスロバキア独立運動から第二次大戦後にソ連の衛星国になるまでのプロセスを展示している。
この国の悲劇は、高い工業力が有りながら、ドイツとロシアの間に挟まれ、運命を自ら決する事が出来なかった事にあるだろう。
第一次大戦でイギリス国内で発行された義勇軍勧誘ポスター
第一次大戦で各国軍に義勇兵として参加し大きな犠牲を払って独立した。
日本製の「有坂銃」は義勇兵によって用いられたようだ。
建国の父、マサリクの顕彰記念碑 (チェコとスロバキアの両国旗が掲げられる)
しかし、束の間の幸せもナチドイツに奪われた。
そのナチスを駆逐するために、再び義勇兵は、主にイギリス軍とソビエト軍に身を投じ戦った。
連合国側での義勇軍募集ポスター
ナチドイツも戦局悪化につれ、なりふり構わず戦争協力を呼び掛けた
しかし、イギリス側で参戦した将兵の多くは、戦後の共産化(1948年~)の中で「西側のスパイ」と濡れ衣を着せされ、有るものは処刑、あるものは公職追放・・・と再び大きな犠牲を強いられた。
明らかに民度・生活レベル共に低いロシアに従わざるを得なかったチェコ・スロバキア両国民にとっては、戦後40年以上は屈忍耐の時代であったに違いない。1968年の「プラハの春」の挫折、それでも生き延びてきた苦難の歴史の展示でもある。
左上に「プラハの春」の写真
入場無料で、駅やバス停からちょっと離れているが、老若男女訪れていた。
声高に「愛国」と絶叫するのではなく、静かに「苦難の歴史を忘れてるな。油断すれば国が地図上から消える。自衛の気概を持つだけでなく冷静に対処せよ」と諭し語りかけるような展示であった。
ベルリンの壁崩壊とともに、漸く西側文明への回帰を果たしたこの国の行く末をこの目で見続けて行きたい。
国立技術博物館の出口に残っていた「タイムカード」。 レトロな木製ボックスが新鮮!
社会主義時代に使われていたものなのだろうか?
なお、ヒトラーの権力奪取のプロセスについては、「ヒトラー権力掌握の20カ月」が流れを整理する上で参考になった。ご興味ある向きにおかれては、一読を勧めたい。
チェコ義勇兵のWW2での活躍と戦後の過酷な運命を理解するだけでなく、大人のエンターテイメントに仕上がった、このチェコ映画「ダークブルー」もお勧め。
(2013年5月10日記)
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