2013年6月1日土曜日

大胆不敵であれ!


 再び、チェコ訪問記に戻る。Liberationfestival in Plzenは、1990年から続いており、今やこの街の最大のお祭りのひとつであろう。
 先般、記したようにパレードが中心になるが、その前後は、アメリカやヨーロッパから退役軍人やミリタリーマニアが当時の軍用車で集結、家族や仲間たちと町の中心部にキャンプを張って過ごす。

 家族連れで来ているというのも新鮮だ。ドイツからも結構来ているらしく、アメリカ軍の格好をしている彼らからドイツ語も聞こえてきた(旧敵国の制服を着て喜んでいる姿には違和感が有るのだが・・)。
 パットンミュージアム(正確にはPatton Memorial Pilsen)は、この期間はフェスティバルのための特別公開になっていた。


パットンというと戦争好きで豪胆なイメージが強いが、少年時代は「失読症(Dyslexia)」であったらしい。


 軍規に厳しく、電撃戦に強い彼は、バルジの戦いで戦功をあげピルゼンまで進撃したが、政治的な判断でプラハ進撃が出来なかったことは無念であろう
 

大胆不敵であれ!というのが彼のモットーだった



将兵向けの現地ガイドブック

 大量のガイドブック(会話集・占領地域の概況書)が前線の兵士に配布されていた。チェコの女性を口説く会話まで網羅していたかどうかまでは判らない。
 が、こういった書籍の装丁を見る限り、日本軍の同時代の兵士用の教科書の装丁と比べて華美に出来ており、物量差を強く感じる。 


G.I.とチェコ美
 

 ちなみに、「G.I」とは GalvanizedIron(亜鉛めっき板)の略とされ、物量的に恵まれたアメリカ兵の装備をもってたアメリカ兵に対する俗称である。

 ちなみに、イギリス兵はTommy Atkins またはTommy、ドイツ兵は Fritz とかKraut (侮蔑的に:ドイツ語のザワークラウト由来)とか呼ばれたようだ。

  

 G.Iたちは、物量作戦でチェコ女性にモーションを掛けていたのかもしれない(苦笑)。


 ベルギー国旗がモチーフとなった展示は、D-day(アメリカ軍のノルマンディー上陸)からピルゼンまでの、ベルギー軍の行軍軌跡を説明していた。
 ベルギーは戦時中にドイツに占領された為、ピルゼンを解放したのはイギリスに亡命した人々からなる部隊である。
 ベルギーもチェコも大国に挟まれている。その意味では似たような境遇にあったともいえるかもしれない。
 
 短編無声映画の上映コーナーがあり、米軍が市広場に入場するシーンが印象的であった。

 そこでPlzenの町の中心広場を歩きまわったが無かった。が、旅から帰ってホテルの名前から検索すると、Plzenではなく、Sušiceという町のホテルであった

 現在はレストランとして存続している模様で隣の建物の形状などからも同じものと特定できる。
 グーグルで検索すると見つかるのも凄ければ、社会主義時代も生き残り、同じ建物で同じ称号で経営し続けている事も凄いと思う。
チェコスロバキア・アメリカの友好式典(当時)

 チェコスロバキアは元々、1918年の独立時から西側世界に目を向けていた。第二次大戦後、アメリカはキラキラと救世主のように輝いていたのかもしれない。
 なぜなら、フランス・イギリスとの同盟関係はナチスドイツの攻勢の前には役に立たず国が消滅したからだ。チェコスロバキア本国の意向などお構いなしに、イギリスが戦争回避の観点からドイツに譲歩して領土をドイツに割譲する事で合意した(19389月のミュンヘン協定)。
 第一次大戦後の外交では、大国同士の総力戦回避が最優先であった。チェコスロバキアの独立は、ドイツやオーストリア、トルコといった国々の力を削ぐための大国の外交政策でもあった。
 アメリカのウィルソン大統領の「民族自決の原則」も、一義的にはこれらの政策を正当化するためにあった。もっと言えば、新興市場獲得、という狙いもあったのだろう。
 

 ありていに言えば、新興独立国の思惑など大国にしてみればどうでもよかったのである。この図式を理解しておかないと、「ミュンヘン協定」の意味合いがピンとこない所であろう。

 「民族自治の原則」などは大国間の駆け引きの道具にしか過ぎなかった。
 
 第二次大戦後、チェコスロバキアにしてみれば、イギリスよりもアメリカ重視といきたかったところだが、そうは問屋がおろさなかった。

  ロンドン亡命政府系勢力とソ連の影響下にあった共産主義勢力との連立政権により新生チェコスロバキアは独立した。
 アメリカとしてはドイツや日本の戦後処理を優先する必要もあり、チェコへの関与は限定的なものになったのだろう(この経緯はこれからの筆者の研究対象でもある)。

  チェコスロバキア・アメリカ友好の手紙のやり取り
 

 パットン将軍自身は1945129日、ドイツ・マンハイム郊外で交通事故で死亡した。丁度、アメリカ軍はピルゼンから撤退した時期である。 


 時代は、ピルゼンとアメリカとの友好関係を許さなくなっていく。そんな事を暗示する死だったのかもしれない。

 最後のコーナーは、アメリカ軍撤退後の苦難の歴史展示だった。

「檻の中」の展示

 1948年により共産勢力が権力奪取。
 西側諸国との接触が有った多くの人々が公職追放にあい、場合によっては投獄・処刑された。亡命せざるを得なかった人もいた。
 そして1953年の労働者反乱、1968年のプラハの春。
 冷戦終結までアメリカ軍による西ボヘミア解放は公式史から抹消された。

教科書も改竄されていた。

 説明は淡々としたものであったが、苦しみ、悲しんだ人々を「檻の中」で展示する事で表現していた。言葉よりも、その演出が一番わかりやすい。 

 時の為政者にとって都合の悪い事を教えないというのは洋の東西を問わない。それがゆえに、家族単位で、口コミで、様々な出来事を伝承していった。あるいはリスクを負いながらも、様々な資料を隠し持っておくということも重要になっていた。

 筆者の見る所、この博物館にはアメリカから寄贈された資料が多いが、当時の手紙などの重要なアイテムはチェコ国内で隠し持たれていたものがあるだろうと、見立てている。 

 こういった取り組みはこれからも、「大胆不敵であれ!」というパットンの言葉のように行っていかねばならないだろう。 
 




プラハはおしゃれな女性が闊歩していたが、ピルゼンも中々のもの。


  

 時代が変わり、ピルゼンの旧市街の中心部は明るさを取り戻した。

次に訪れるときはどのようになっているだろうか・・・

 筆者も大胆不敵に精進してまいりたい。  

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(2013年6月1日記)


※1 Battalion(大隊)300–1,300名で構成され、中佐か少佐が指揮。





  

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