明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
さて、年頭にあたり、「乱世を生き延びる知恵」について考えてみたい。
ソ連崩壊直後に、真冬の中東欧を旅した。「卒業旅行」と当時は言っていた。 ヨーロッパ内部でも東西間の経済格差は生々しく「自由無き国家にイノベーション無し」と実感する一方、東側の人々のささやかな生活を垣間見る事ができ貴重な体験であった。
まだホテルも十分でなく、国際列車が着いたブタペストの駅前には外貨目当ての民宿の客引きがいた。プラハには西側の様な看板は無く、目抜き通りは今のように垢ぬけてはおらず、ホテルのシャワーは水だった。西から東ベルリンに入ると匂いで判った。暖房等に石炭を使っていたからだ。どこの旧共産圏も一様に市電が凍りついた街を走っていた。そしてポツダムには旧ソ連軍が未だ駐留していた。帰る金が無いので、ドイツが仕方なく払ったと聞く。
西側に戻ってくるとホッとした反面、中欧の街に強烈なノスタルジアを感じた。何故か中欧こそが本物のヨーロッパのような気がした。
ミュンヘンのユースホステルに泊った時に出会った青年との何気ない会話が、ヨーロッパと一生向き合って勉強していこうと決意させたと思う。
まだホテルも十分でなく、国際列車が着いたブタペストの駅前には外貨目当ての民宿の客引きがいた。プラハには西側の様な看板は無く、目抜き通りは今のように垢ぬけてはおらず、ホテルのシャワーは水だった。西から東ベルリンに入ると匂いで判った。暖房等に石炭を使っていたからだ。どこの旧共産圏も一様に市電が凍りついた街を走っていた。そしてポツダムには旧ソ連軍が未だ駐留していた。帰る金が無いので、ドイツが仕方なく払ったと聞く。
西側に戻ってくるとホッとした反面、中欧の街に強烈なノスタルジアを感じた。何故か中欧こそが本物のヨーロッパのような気がした。
ミュンヘンのユースホステルに泊った時に出会った青年との何気ない会話が、ヨーロッパと一生向き合って勉強していこうと決意させたと思う。
旅の最後の夜、筆者はウィーンで仲良くなったアメリカ人留学生の女の子と束の間の再会をした昂揚感からか、ついつい門限を忘れていた。ホステルに戻って見ると当然ながら、門扉はがっちりと閉じられていた。インターホンにも応答が無く、途方に暮れていると、ドイツ人の若者がどこからか帰ってきて鍵を開けてくれた。聞けば、兵役の代わりにホステルの夜間受付(ナショナルサービス)をしているとのことであった。
彼は「寝ずの番」で話し相手が欲しかったようだった。お互いの国の政治、経済、歴史の話を明け方まで語り合った。
彼は言った。「ドイツは戦争に負け、物的資源や領土を失った。お金や不動産を失ったり奪われる事はこれからもあるだろう。しかしどんなに奪おうとしても頭の中にある『何か』までは奪えない、だから人は学び続けるのではないか」と。 第二次大戦の話になった時のことだった。
彼は言った。「ドイツは戦争に負け、物的資源や領土を失った。お金や不動産を失ったり奪われる事はこれからもあるだろう。しかしどんなに奪おうとしても頭の中にある『何か』までは奪えない、だから人は学び続けるのではないか」と。 第二次大戦の話になった時のことだった。
地続きの地における乱世を生きる知恵とはこのことか、と強い感銘を受けた。
もちろん「何か」が意思、思想、ノウハウ、社会システム、ユートピア・・・・と、様々な解釈が出来る。ユダヤ人の教えにも似たような話があるようだ。
以来、大陸ヨーロッパの社会や歴史から、彼らの思考スタイルを学んでみようと考えるようになった。
真夜中に仕事から帰ってきては歴史や社会情勢に関連した読書で夜が更けた。GWや年末年始はヨーロッパを旅行しながら博物館や美術館、戦跡を巡っていた。ところが判らない事が増える一方であった。
仕事を通して「組織の在り方」「非常時における意思決定の在り方」といった点についても考えさせられることがあり、そのことも歴史から併せて学ぼうと考え、結局、仕事を辞して、大学院に通うことにした。
真夜中に仕事から帰ってきては歴史や社会情勢に関連した読書で夜が更けた。GWや年末年始はヨーロッパを旅行しながら博物館や美術館、戦跡を巡っていた。ところが判らない事が増える一方であった。
仕事を通して「組織の在り方」「非常時における意思決定の在り方」といった点についても考えさせられることがあり、そのことも歴史から併せて学ぼうと考え、結局、仕事を辞して、大学院に通うことにした。
名前も顔も忘れてしまったが、学び続けるきっかけを作ってくれた、そのドイツ人の青年に今でも心からお礼をしたいという気持ちは変わらない。
翌朝は朝焼け、8時過ぎないと夜が明けないが、ロンドンのど真ん中で自然を感じる一瞬。
(2013/1/3記)
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